張承
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張承
[編集] 張承 (後漢)
張承(ちょうしょう、生没年不詳)は、後漢末期の人物、曹操配下。字は公先。張範(字は公儀)の弟。史書には兄の張範の伝が立っており、それに付伝する形で紹介されている。
祖父は司徒、父は大尉であり、自身も議郎であった。専横を極める董卓に反発しこれを暗殺しようとするも、失敗し、兄と共に楊州へ逃れた。袁術に仕官をすすめられるが、これを拒絶する。曹操が冀州を支配した後、兄と共にこれに仕え、参軍、趙郡太守などを拝命した。曹操が西方に軍を向けると共に同行したが、長安で病のため没した。
[編集] 張承 (孫呉)
張承(ちょうしょう、178年-244年)は、呉の武将。字は仲嗣。張昭の長男、張震の父、張奮の従兄弟。
父と同じく孫権に仕え、魏との戦いで活躍した。父・張昭は文官だったが、張承は武勇に優れた武官である一方、人物眼にも優れた才能を持つ智勇兼備の武将で、人望はあったものの、誠実で剛直なことから主君に疎んじられていた父と違い、孫権からの信頼も厚かったと言われている。
諸葛瑾、歩騭、厳畯とは若い頃から親友の仲であった。後に愛妻に先立たれると、父の張昭から諸葛瑾の娘を後妻に薦められたが、親友であった諸葛瑾と義理の親子になることが気に進まなかったため、最初は拒否していた。しかし、孫権の仲介もあって、諸葛瑾の娘と結婚したと言われている。なお、年齢は諸葛瑾よりも四つ下である。
死後、定侯と諡され、子の張震が跡を継いだ。
後に、張承と諸葛瑾の娘との間に生まれた女児は、孫和の妃となった。張承は諸葛恪が瑾の家を滅ぼすことを予言していたが、彼の誅殺時、張震も共に殺され、孫和とその妃は自殺して、張承の一族もまた滅亡した。