市川経好
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市川 経好(いちかわ つねよし、1520年(永正17年) - 1584年(天正12年))は、戦国時代 (日本)、安土桃山時代の武将。藤姓吉川氏の一門で毛利氏の家臣。父は吉川国経の三男・吉川経世。子に市川元教・市川元好。伊豆守。式部少輔。
1549年、父と共に吉川興経を廃して吉川元春を養嗣子に迎える功績を上げた。それにより安芸国市川を加増され、吉川から市川へと改姓している。
1557年にはその行政手腕が認められ、周防山口奉行として高嶺城に入る。
1569年に大友宗麟の支援を受けた大内輝弘が豊後より出陣し、周防に上陸。高嶺城を包囲する。城主の吉川経好は北九州において立花山城をめぐって大友氏と対陣中であり、城には経好の妻しかいなかった。しかし経好の妻は城兵を率い大内軍を撃退し、見事に城を防衛した。この功績により1577年、毛利輝元より感状を受けた逸話が残っている。