市川團十郎 (2代目)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
二代目市川團十郎(にだいめ いちかわ だんじゅうろう、元禄元年(1688年) - 宝暦8年9月24日(1758年10月25日))は正徳から享保年間にかけて活躍した江戸歌舞伎の名優。江戸人の絶大な人気を博して、現在にいたる市川団十郎家の基礎を築いた人物である。父は初代市川團十郎、母は初代市川翠扇。初代が成田不動尊に願をかけて生れた子であったために「不動の申し子」といわれた。俳諧、狂歌を良くし、俳号に、三升(さんしょう)・才牛・栢莚(はくえん)。
[編集] 経歴
元禄10年(1697年)、中村座の『兵根元曾我』で初舞台。元禄17年(1704年)、初代団十郎の突然の死によって、山村座で二代目襲名するが、力不足で悩む弱冠17歳の二代目を庇護したのは当時の名優生島新五郎であった。
従来、歌舞伎は被差別民の頭領弾左衛門の支配下に置かれていた。宝永5年(1708年)、小林新助の訴えにより、江戸町奉行は歌舞伎と傀儡師の支配権を弾左衛門から剥奪。二代目は被差別民からの独立を果たした喜びから、小林が記録した訴訟の顛末を元に『勝扇子』を著し、代々伝えたという。正徳3年(1713年)、山村座『花館愛護桜』において助六を初演したころから徐々に劇壇に足場を築き、人気を得るようになる。翌4年(1714年)の絵島生島事件にあっても軽い処分でまぬがれ、江戸歌舞伎の第一人者へと成長。享保6年(1721年)には、給金千両となった。
享保20年(1735年)、養子升五郎に三代目團十郎襲名させ、二代目市川海老蔵を名乗る。寛保元年(1741年)には大坂に上って『毛抜』を初演し、上方においても人気を博した。しかしこの年には三代目が急逝し、後嗣を失ったため、宝暦4年(1754年)、改めて門弟の二代目松本幸四郎を養子として、四代目團十郎を継がせる。
二代目団十郎の功績はきわめて大きい。若い頃に師事した生島新五郎が、初代中村七三郎の芸系を受継ぐ和事師であったことから、父親譲りの荒事芸に和事味を加味した独自な芸風を得意とし、『助六』や『毛抜』のような演目を初演することになったわけだが、荒事、和事のみならず、実事、濡れ、やつしにいたるまで幅広い芸域を誇り、絶大な人気を得た。いわゆる歌舞伎十八番の演目が整理されてゆくなかで、もっともつよい影響を与えた人物である。
隈取の技法・様式を完成させた人物としても有名である。
市川團十郎 |
||||||||||||||
|
|
|
[編集] 著書
- 老いのたのしみ
- 栢莚狂句集