崔エン
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崔琰(さいえん、163年-216年(8月、現在の9月末頃))は、後漢末期の武将・政治家。字は季珪。清河郡東武城県の人。
[編集] 略要
[編集] 生涯
公明正大で誠実な人柄であった。威厳のある容姿をしており、髭が四尺あった。若い頃は剣術を好んだが、成人してからは学問に励んだ。袁紹に招かれてその家臣となった。袁紹の死後、袁紹の二人の子はいがみあい、争って崔琰を味方に引き入れようとしたが、崔琰は病気と称して固辞したので、咎められ、投獄された。
曹操が袁氏を破り、冀州の牧になると崔琰を召し寄せて、冀州の別駕従事にした。その後も、尚書・中尉などを歴任した。
崔琰は人を見る目が優れており、司馬朗と仲が良かったが、司馬朗の弟の司馬懿の才能を非常に高く評価した。また、崔琰が高く評価した孫礼・崔林・盧毓は三公になった。
曹操が魏王になったとき、崔琰が推挙した楊訓が曹操を賛美する上奏文を出したが、その上奏文に対する崔琰の批評が曹操の不評を買い、投獄され、自害を命じられた。『三国志』魏書崔琰伝によれば、曹操が刑具を使う意思があることを知らされると、自害した。『三国志演義』では、曹操に撲殺されたことになっている。
[編集] 宗族
崔琰には、従弟(或いは甥とも)に司空となった崔林(字は徳儒)がいる。
崔琰の兄の孫(或いは孫とも)に崔諒がいる。
そして、五胡十六国時代の西晋末期に曾孫である崔毖がいる。