岡野包秀
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岡野 包秀 (おかの かねひで、延宝8年(1680年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は赤穂浪士四十七士の一人。美男子と伝わり、吉良邸絵図面をめぐるお艶との恋愛の逸話で有名。通称は金右衛門(きんえもん)。
赤穂藩浅野家家臣の岡野金右衛門包住(200石)の長男として赤穂に誕生。父は小野寺十内の実弟(包秀から見れば十内は伯父)。幼名は九十郎。元禄14年(1701年)3月14日に主君浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ際にはまだ部屋住み(家督前)の身であった。4月、父包住は、大石内蔵助に神文血判書を提出し、岡野一家は赤穂田井村に住んだ。しかしその後父が病に倒れたため、父にかわって包秀が同志たちと連絡を取り合い、元禄15年(1702年)閏8月25日には病の父を残して武林唯七らとともに江戸へ下向し、堀部安兵衛借家に住んだ。9月5日に父が死去するが、この報を江戸で知った包秀は、自らの称を父と同じ「金右衛門」に改めた。その後、本所相生町の前原伊助の店に移ったと言われ、ここで岡野の吉良邸絵図面に関する逸話が生まれた。
その逸話とは、前原の店で手代をしていた美男子の岡野は、この店に客としてやってきた本所大工元締めの平兵衛の娘お艶に近づいて恋人となり、彼女に吉良家の普請を請け負った平兵衛の持つ吉良邸絵図面を盗ませる。しかし恋人を騙してしまったことに自責の念を感じて、岡野は愛と忠義の狭間で苦悩するという筋書きのもの。
話としては面白く、ドラマなどでもしばしば登場する逸話である。しかし残念ながら事実ではなかろうと思う。なぜならば寺坂の筆記に「吉良邸絵図面は内縁を以って入手した」と書かれているからである。「内縁」というからには、誰かが親族筋で手に入れたということだろう。おそらく吉良が移ってくる前の屋敷の主だった松平登之助信望家臣に親族がいる大石瀬左衛門あたりが入手したと考えるのが自然ではないか。
吉良邸討ち入り時の際には表門隊に属した。本懐後、松平邸に預けられ、同家家臣の加藤斧右衛門の介錯にて切腹。享年24。主君浅野内匠頭と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃回逸剣信士。
俳人としてもなかなかの人物だったようで、放水子・竹原などの雅号を持ち、大高源五が編集した「俳諧二ツ竹」にも岡野の句が乗っている。