岡田藩
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岡田藩(おかだはん)は備中国下道郡岡田(岡山県倉敷市真備町岡田)に岡田陣屋を構えた藩。元禄年間、一時、川辺藩(かわべはん)と称した。
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[編集] 沿革
岡田藩主・伊東氏は日向国飫肥藩・伊東氏と同族である。藩祖・長実は豊臣秀吉・秀頼に仕えて大坂の陣まで豊臣氏の家臣であったが、関ケ原の戦いの際に石田三成挙兵の報をいち早く徳川家康に伝えたとされ、その功により大坂の陣で家康に敵対するも許された。元和元年(1615年)、備中国下道郡・美濃国池田郡・摂津国豊島郡・河内国高安郡の各郡内に10,343石を与えられ立藩した。
以後、明治4年(1871年)の廃藩置県まで伊東氏の所領となった。廃藩置県後、岡田県となり、深津県・小田県を経て岡山県に編入された。伊東氏は、後に子爵となり華族に列した。
岡田には第二次大戦中、小説家・横溝正史が疎開した居宅が現存する。
[編集] 新本義民騒動
新本義民騒動(しんぽんぎみんそうどう)は享保3年(1718年)、第5代藩主・長救の時代に起こった領民による一揆である。
藩領内の新庄村と本庄村(現・総社市新本)に跨る大平山と春山は領民の入会地であった。藩はこれを「お留山」と称する藩の公地とし、領民の立ち入りを禁じ、更に樹木伐採とそれを薪として陣屋まで運ばせる賦役を課した。これに反対した領民は代表4人を江戸に送り藩主に直訴し、お留山と賦役は、無事解消された。しかし、直訴した4人は処刑され、その家族・騒動の加担者は領内から追放された。現在、新本には義民の碑が建っている。
[編集] 歴代藩主
- 伊東(いとう)家
外様 10,343石 (1615年 - 1871年)
- 長実(ながざね)〔従五位下、丹後守〕
- 長昌(ながまさ)〔従五位下、丹後守〕
- 長治(ながはる)〔無冠〕
- 長貞(ながさだ)〔従五位下、信濃守〕
- 長救(ながひら)〔従五位下、播磨守〕
- 長丘(ながおか)〔従五位下、若狭守〕
- 長詮(ながとし)〔従五位下、伊豆守〕
- 長寛(ながとも)〔従五位下、播磨守〕
- 長裕(ながやす)〔従五位下、若狭守〕
- 長※(ながとし)〔従五位下、播磨守〕 ※(とし)は「卆」の左下に「百」右下に「千」