山内忠豊
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山内 忠豊(やまうち ただとよ)は、江戸時代前期の大名。土佐国土佐藩の第3代藩主。
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時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 慶長14年10月29日(1609年11月25日) | |||
死没 | 寛文9年8月5日(1669年8月31日) | |||
別名 | 国松(幼名)、伊(猪)右衛門(通称) | |||
戒名 | 徳昌院傑山京英 | |||
官位 | 従四位下、侍従兼対馬守 | |||
藩 | 土佐国土佐藩主 | |||
氏族 | 山内氏 | |||
父母 | 父:山内忠義 母:松平定勝娘(徳川家康養女)・阿姫(光照院) |
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兄弟 | 山内忠豊、山内忠直、山内一安、山内之豊 | |||
妻 | 正室:池田利隆の娘・長光院 | |||
子 | 1男5女(山内豊昌、フウ(本多政長室)、 松(真田信利室)、椎(山内一輝室) |
慶長14年(1609年)10月29日に第2代藩主・山内忠義の子として生まれる。通称は伊(猪)右衛門。
明暦2年(1656年)7月3日、父の忠義が中風を患って隠居したため、その後を継いで藩主となった。忠豊は父の命に従って引き続き野中兼山を登用し、伊予国宇和島藩との境界線をめぐる争いにも決着をつけた。
ところが、忠豊は兼山のことをあまり快く思っていなかった。そのため、父が重病に倒れた頃から兼山の改革に対する反対派である生駒木工らと結託して兼山を弾劾したのである。そしてさらに叔父の伊予松山藩主・松平定行の助けを受けて、寛文3年(1663年)7月に兼山を失脚させてしまったのである。これを、「寛文の改替」という。ちなみに兼山は、わずか3ヵ月後の10月、失意のうちに49歳で病死した。父の忠義も翌年に亡くなり、忠豊はいよいよ自らが政治を行なうようになる。
しかしわずか5年後の寛文9年(1669年)6月15日、長男の山内豊昌に家督を譲って隠居し、直後の8月5日に死去。享年61。
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