尾上多見蔵 (3代目)
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尾上多見蔵(3代目)(さんだいめ おのえたみぞう、1866年(慶応2年)1月6日 - 1927年(昭和2年)1月7日)は上方の歌舞伎役者。本名吉川鶴之助、俳名は梅笑、屋号は音羽屋
京で紀州藩家臣の子として生まれる。5代目坂東彦三郎に入門。坂東鶴之助と名乗る。1870年(明治3年)京都南座で初舞台。1874年(明治7年)に2代目尾上多見蔵門人となる。尾上多見之助の名で主として関西の舞台に立つ。武士の生まれであったために役者業にコンプレックスをいだき関係者を困らせたが、やがて腰を据えて役者修業に打ち込む。1918年(大正7年)2月大阪浪花座「熊谷陣屋」の熊谷で3代目尾上多見蔵を襲名。このときは初代中村鴈治郎の義経、6代目尾上梅幸の相模という豪華版で大評判となった。その後は関西歌舞伎の中心となったが鴈治郎の陰に隠れ鳴かず飛ばずのままに終わってしまったのは残念であった。
最後の舞台となったのは1925(大正14)年5月大阪中座の「対面」であった。十三代目片岡仁左衛門の著書では、すでに体調を崩して引退同然であった多見蔵であったが、番頭が「最後になんとか華を飾ってやりたい」のでこの舞台に出してほしいと鴈治郎に頼み、一座で相談のうえ源頼朝役で特別出演させたと書かれている。なおこの舞台には 頼朝が多見蔵、十郎が鴈治郎のほかに五郎が七代目幸四郎、工藤が十一代目仁左衛門、虎が三代目雀右衛門、朝比奈が二代目延若、少将が六代目吉三郎、近江が我當(十三代目仁左衛門)、八幡が扇雀(二代目鴈治郎)本多親経が厳笑というオールスターキャストであった。(「芝居噺」河出書房新社 1992年)
実事や女形をこなし堅実な芸風であった。「和田合戦女舞鶴」の板額・「仮名手本忠臣蔵」の師宣・「矢口渡」の頓兵衛などが当たり役。