大陸封鎖令
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大陸封鎖令(たいりくふうされい、Continental System, Continental Blockade)とは、フランス帝国とその同盟国の支配者になったナポレオン1世が、その当時産業革命中のイギリスを封じ込めてフランスと通商させてヨーロッパ大陸の経済を支配しようとして1806年に出した経済封鎖命令である。ベルリンで発令されたのでベルリン勅令とも言う。
[編集] 経緯
1806年11月21日に発令されたが、フランス国民とフランスの同盟国との軋轢を生み、かえってナポレオンに対する敵愾心を強める結果となってしまった。フランスに従属した欧州諸国や北欧は大陸封鎖に参加を余儀なくされた。しかし大陸諸国は豊かな経済力をもつイギリスと通商が出来なくなったため、経済的困窮を招くことになってしまった。 逆にイギリスはフランスを封じ込めるために海上封鎖に出たことで、当初中立を宣言していたアメリカと利害が対立し、1812年に米英戦争が勃発した。イギリス側も全く無傷だった訳ではない。次第に経済は不況となり、フランス側の私掠船が暗躍し、商船は略奪され、国内では国民の暴動、首相スペンサー・パーシヴァルの暗殺、英国国王ジョージ3世の発狂、そして米英戦争と「イギリス史上最も困難な局面」を迎えたのである。 フランスはある程度の成功を見たが、その同盟国はイギリスの不況を被り、その恩恵を受けることが出来ず不満や不平がのし掛かっていくこととなった。
大陸封鎖令は欧州では甚だ人気が無く、反ナポレオン政策を取ったスウェーデンが拒否する。しかしナポレオンはロシア帝国をけしかけ、スウェーデンを屈服させて封鎖令に参加させる。だが離反国は後を絶たず、ポルトガルが協力を渋った。ゆえにナポレオンはイベリア半島への派兵を決断したが、そのためにスペインの政争に介入せざるを得なくなり、イベリア半島戦争の泥沼に巻き込まれていく。効果の上がらない大陸封鎖の実状を見て取ったロシア帝国は、1810年、大陸封鎖令を破りイギリスと通商を開始する。ナポレオン1世は法令を破ったロシアを見せしめとして成敗しようとロシア遠征(1812年)を企てたが、ロシア側の焦土作戦などで大敗を喫し、没落を招く結果となった。
[編集] 評価
大陸封鎖はもともと次のような矛盾をはらんでいた。
- これはイギリスに代わるフランス産業の大陸市場独占であり、軍事支配と絡んでフランスの従属政策への不満が強まる。
- イギリスほど機械化の進んでいないフランス産業は、イギリスに代わる役割を果たすことが出来ない。
- 大陸諸国家は貿易を基盤とするオランダやハンザ都市、農業国のロシア、プロイセン、イタリア、スペイン、工業の比較的発達した西南ドイツなど多様な国民経済を持ち、それらはイギリスとの貿易関係を抜きにしては存在できない。
総体的に見れば、1806年以降のナポレオンの戦争は全て大陸封鎖令に関わっている。つまりイギリスからの貨物の荷揚げを阻止しようとすれば、欧州諸国を力尽くでも大陸封鎖令に協力させねばならなくなり、この戦略にしたがってドイツ、ローマ、イベリア半島、ロシアと言った諸国に大陸軍による侵攻をかける事になったのである。ナポレオン戦争の一面にはこの様な経済的要因も絡み、単なるナポレオンによる欧州征服の野心のみで行なわれた訳ではなかった。結果ナポレオンはその論的帰結として帝国の拡張に走らざるを得なくなり、大陸封鎖令とそれに伴うイギリスとの確執がナポレオンの没落の決定的な要因となったのである。