大運河
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大運河(だいうんが、中:dàyùnhé)とは大きな運河のことであり、この語は、中国の京杭大運河と、ヴェネツィアにあるカナル・グランデを指すことが多い。この項では中国の大運河について説明する。
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[編集] 概要
京杭大運河は、中国の北京から杭州までを結ぶ、総延長2500キロメートルに及ぶ大運河である。途中で、黄河と揚子江を横断している。戦国時代より部分的には開削されてきたが、隋の文帝と煬帝がこれを整備した。完成は610年。運河建設は人民に負担を強いて隋末の反乱の原因となったが、運河によって政治の中心地華北と経済の中心地江南、さらに軍事上の要地涿郡が結合して、中国統一の基盤が整備された。この運河は、その後の歴代王朝でもおおいに活用され、現在も中国の大動脈として利用されている。
[編集] 建造の背景
西晋の滅亡以後、中国は300年近い年月にわたって南北に分裂していた。南北がなかなか統一されない原因として、淮水・長江の間に網の目上に走る小河川が進軍の足を鈍らせることにあり、曹操が敗北した赤壁の戦い・苻堅が敗北した淝水の戦いなども、北の騎馬軍団が南の水軍に敗れたという側面がある。
[編集] 煬帝の開削
北周から禅譲を受けて隋を建国した楊堅(文帝)は、この問題を解決するために587年に淮水と長江を結ぶ邗溝(かんこう)[1]を開鑿し、589年に陳を滅ぼして、南北を統一した。
604年に二代皇帝煬帝が即位し、翌年より再び大運河の工事が始まる。
まず初めに黄河と淮水を結ぶ通済渠(つうせいきょ)が作られ、続いて黄河と天津を結ぶ永済渠(えいせいきょ)、そして長江から杭州へと至る江南河が作られ、河北から浙江へとつながる大運河が完成した。完成は610年のことで、その総延長は2500キロメートルを越える。
通済渠の工事には100万人の民衆が動員され、女性までも徴発されて5か月で完成した。これによって、後の人から暴政と非難され、更にこの運河を煬帝自身が竜船(皇帝が乗る船)に乗って遊覧し、煬帝が好んだ江南へと行幸するのに使ったことから、「自らの好みのために民衆を徴発した」などとも言われるようになる。
しかし、大運河は一からすべてを造ったわけではなく、それまでに造られていた小運河をつなげることで通した部分がかなりある(その点を差し引いてもかなりの無理で急速すぎる工事であったことは否めないが)。それに大運河の建造は南北の統一を確かなものとし、江南の物産を河北にもたらすのが主目的であることは明らかである[2]。また、永済渠建設の目的は高句麗遠征のためであった。
[編集] 開削の効果
大運河が開通したことによって、経済的に優越していた南が北と連結し、中国全体の流通が高まった。その経済的・文化的・政治的な影響は計り知れない。また、大運河の建設に多くの人々を動員して苦しめたことを隋朝打倒の大義名分の一つとして建国した唐王朝こそが実は大運河からの最大の受益者であった。地元の生産力では支えきれなくなった首都長安の食糧事情を安定させることができたのも、実は大運河による物資の運送能力によるところが大きかった。
開封は永済渠と通済渠の結節点として中国の南北を結び、黄河によって東西とも結ばれていたので経済的な重要性が高まり、五代十国時代よち北宋の首都として繁栄した。開封城では、城内を運河が貫通しており、長安のような大規模な直交道路は姿を消したが、入り組んだ大小の街路には各種の飲食店や酒店などが軒を連ねるなど、その商業は隆盛をきわめた。当時の運河周辺の都市の繁栄のようすは『清明上河図』(張択端画)に活き活きと描かれている。
[編集] 衰退と新経路による開削
しかし、金が華北を占領して南宋と対立するようになると、大運河の流通も激減し、整備もされなくなってさびれてしまった。その後、元が中国大陸を征服すると、江南から首都の大都(北京)への近道として済州河と会通河が開かれた。つまり、いったん開封を経由して北京に至るそれまでのルートが不便だったため、杭州から北へ進み天津へとつながるルートが開かれたのである。元代には海運が発達し、対外貿易を主にしていたので、従来に比べると大運河の重要度は落ちていたが、この新しいルートは都市北京の重要性を高める効果があった。
明代に入り、永楽帝によって北京に遷都されると、再び大運河の重要度が増した。明は海禁策(貿易禁止)を採っていたので、再び水運が見直され、また新たに開鑿された。杭州から北へ進み、淮安→徐州→済寧→滄州→天津とつながる運河ができて、これが現在の大運河となった。海禁策を採用した明・清では、大運河を維持することが国都にとって死活的な重要性をもっていた。
清末に開国し、再び貿易が活発化すると大運河の重要度は落ち、地方的な交通路となったが、中華人民共和国成立後は再び整備が行われ、2000トン級の船が通行できるように改修工事が行われている。
[編集] 脚注・出典
- ^ 山陽瀆(さんようとく)ともいう
- ^ 布目潮フウ, 栗原益男『隋唐帝国』講談社, 1997, p.48. ISBN 4061593005.
[編集] 外部リンク
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