大日本武徳会
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大日本武徳会(だいにっぽんぶとくかい、大日本武德會、明治28年(1895年)4月17日 - 昭和21年(1946年)10月31日)は、日本の武道の振興、教育、顕彰を目的とし設立された財団法人。昭和17年(1942年)からは、武道関係組織を統制する政府の外郭団体となる。昭和21年(1946年)、連合国軍最高司令官総司令部指令により解散した。関係者の公職追放は1,300余名に上った。
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[編集] 目的・理念
武徳の涵養とそのための武術の奨励、それによる国民の士気を振興することを目的とする。
武徳とは、「大和魂トカ、尚武ノ氣象トカ、愛國ノ精神トカ云フト同ジコト」(善鉦次郎演説)であり、武徳を養成する手段として、剣術・柔術などの武術が位置づけられている。
[編集] 事業
明治42年(1909年)、武徳会が財団法人化した際にまとめられた事業は以下の通りである。
- 平安神宮境内への武徳殿の造営とその維持
- 武徳祭・大演武会の開催
- 武術教育機関・教育施設の建設
- 武術に秀でた者の表彰
- 古武器の蒐集
- 伝統武術の保存
- 武徳・伝統武術・古武器に関する史料の編纂・紀要の発行
[編集] 歴史
明治28年(1895年)、京都において丹羽圭介・佐々熊太郎・鳥海弘毅・渡邊昇を中心として、武術教育による精神鍛錬とそれを支える団体の組織化が目指され、同年4月には大日本武徳会の発起人総会が開かれた。
当初は、天皇の行幸に合わせて、天皇が観覧する試合、すなわち天覧試合の開催を目的とする団体であった。
しかし、天皇の行幸が中止となったため、全国組織として展開することに方針が転換する。そこで、陸軍参謀総長小松宮彰仁親王を総裁とし、警察を中心として、内務省の地方組織が活用され、組織の展開がはかられた。
武徳会は、会員から会費(義金)を募ることでその運営をおこない、会員の多い地域から順次支部を建設していった。 明治42年(1909年)には、財団法人化し、組織の強化がはかられる。明治42年の段階で、会員数151万人、資金量181万円の団体となっており、昭和17年(1942年)度末には、全国に支部を建設し、会員数224万人、資金量559万円という膨大な会員と莫大な資金を持つ一大団体となっていた。
以上のように、全国的な組織として発展した武徳会であるが、昭和17年に政府の外郭団体として再編される。
昭和13年(1938年)、武道審議会の設置が国会で承認され、それをうけて、翌昭和14年(1939年)年12月23日、厚生大臣の諮問機関「武道振興委員会[1]」が設置、この委員会は武道を総合統制する団体の組織化や政府内部に武道関連部署の設置等を政府側に答申。昭和16年(1941年)5月には厚生省体力局武道課が新設される。同年12月22日、太平洋戦争開戦。同年12月、同じく厚生大臣諮問機関の「国民体力審議会[2]」は、新たに新設する武道団体は政府の外郭団体として厚生・文部・陸軍・海軍・内務の5省共管によるものとし、既存の武徳会を包含する形で新たな武道団体に改組・帰一させる旨を答申。これを受けて昭和17年(1942年)3月21日、既存の武徳会を改組、会長に東條英機内閣総理大臣、副会長に厚生・文部・陸軍・海軍・内務の各大臣と学識経験者1名をそれぞれ招き、理事長に民間人、各支部長には各地の知事をあて、本部は京都の武徳殿から東京の厚生省内に移転、こうして政府5省が共管する政府の外郭団体として新たな大日本武徳会が発足する。
政府の外郭団体となった武徳会は、大日本学徒体育振興会・講道館・日本古武道振興会・大日本剣道会などを包摂組織とし、統制をおこなった。また、武徳会は、銃剣道・射撃道・剣道・柔道などの各部会を設け、各武道の振興にも寄与した。
昭和20年(1945年)に、武徳会は、全国の武道組織を統制する政府の外郭団体から、民間団体へと組織を改編し、人員も刷新された。また、各武道組織の統制も消滅した。
しかし、設立当初から旧内務省との密接な結びつきをもっていたため、連合国軍最高司令官総司令部から解散を命じられ、昭和21年(1946年)10月31日に解散した。また、昭和22年(1947年)の公職追放では、武徳会に関わった人物も対象となり、約1300名が公職から追放されることとなった。
[編集] 大日本武徳会の活動
前記事業の箇条書きにあるように、武徳会は武術奨励のさまざまな事業をおこなっている。その中でも特筆すべき事業をあげる。
[編集] 武道、剣道、弓道の名称統一
大正8年(1919年)大日本武徳会は「剣術」「撃剣」などの名称を「剣道」に統一。またこのころ、弓術を弓道と改称、柔術を柔道と改称。
[編集] 武術家の表彰と称号の制定
武徳会は、毎年大演武会をおこない、それに出場した武術家から、武術の保存・奨励に努力してきた人物を表彰する制度を設け、「精錬証」と名付けた表彰をおこなった。
明治35年(1902年)には、範士・教士の称号が設けられ、精錬証は教士の下位の称号となる。そして、昭和9年(1934年)には、範士・教士・錬士の称号が制定された。
昭和17年(1942年)までに、剣道を中心として、柔道・弓道・銃剣道・居合術・薙刀術・槍術・鎖鎌術・捕縄術・鉄扇術・遊泳術・空手術などの各種武術家約1万名に称号が与えられている。
武徳会によって定められた範士・教士・錬士の称号は、現在の全日本剣道連盟や全日本弓道連盟の発給する称号にも引き継がれている。
[編集] 統一形の制定
- 武徳会剣術形 あまり普及せず、後に大日本帝国剣道形が制定される。
- 大日本帝国剣道形
- 弓道射形
- 昭和8年(1933年)5月の全国範士・教士会の要請により弓道家27名によって「弓道形調査委員会」が構成され、同年11月10日より3日間にわたり京都・武徳殿で議論制定された。
- 武徳会柔術形(後に「武徳会柔道形」と改称)
[編集] 外部リンク
[編集] 審判規定の制定
[編集] 武道専門学校の建設
- 明治38年(1905年)8月、大日本武徳会、京都に武術教員養成所を設置
- 明治44年(1911年)武術教員養成所を武術専門学校と改称
- 明治45年(1912年)1月23日武術専門学校認可
- 大正8年(1919年)武術専門学校を武道専門学校と改称
[編集] 現在存在する「大日本武徳会」
現在、戦前の大日本武徳会と関係が無い、同名の「大日本武徳会」という団体が存在するが、前の同名の政府外郭団体とは異なり、古武道の演武大会などを主催する民間の武道団体である。昭和32年創立。現在の総裁は、東伏見慈洽、顧問は宮沢喜一元総理などである。
[編集] 脚注
- ^ 昭和14年12月23日、国家主導による武道振興を目的として設置、その方策を審議した有識者会議。
- ^ 国民の体力に関し調査、審議し、意見を答申した有識者会議。昭和13年に厚生大臣諮問機関「国民体力管理制度調査会」(官制:昭和13年勅令第741号)を設置、後に国民体力審議会官制(昭和14年勅令第497号)により先の調査会を廃止、審議会を新設。
[編集] 参考文献
- 中村 民雄 編 『史料近代剣道史』 島津書房、1985年。
- 小山 高茂 他3名 編 『現代弓道講座 第一巻』 雄山閣出版、1994年。ISBN 4-639-00146-0。
- 戦時下の「国民体育」行政 厚生省体力局による体育行政施策を中心に 中村佑司
- 中野文庫 国民体力管理制度調査会官制
- 中野文庫 国民体力法