大内定綱
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大内 定綱(おおうち さだつな、天文14年(1545年) - 慶長15年(1610年))は戦国時代の武将。本姓は多々良氏。家系は西国一の守護大名 大内氏の分家。父は大内義綱。弟に片平親綱。子に大内重綱がいる。当初、塩松氏の家老。塩松氏を追い塩松城の城主となり国人となる。後に伊達氏の家臣。仮名は太郎左衛門、勘解由左衛門。受領名は備前守。法号は廉也斎。諱は定綱。
[編集] 生涯
系譜上、西国の有力大名大内氏の庶流といわれる。しかし、どの時代に嫡流から分かれたのか不鮮明で、仮冒の可能性もある。そもそも陸奥の大内氏は斯波氏の庶流石橋氏の一門塩松氏の執事として奥州塩松に入部した家系であり、後に義綱の代に石川弾正らと共に主家を追い、大内氏が塩松領主(陸奥小浜城主)となる。これは、石橋塩松氏領国への侵攻を狙っていた田村氏が石橋家中に内応を促したことによったもので、この縁により大内家は田村家の旗下となったが、二代目である定綱の代に田村・大内両家の家臣同士の争いの裁決に対する不満から徐々に距離をおくようになり、半独立の様相を呈した。
定綱自身は戦上手として名高く、その評判をも活用して奥州有力大名の間を転々としつつ、巧みに勢力を伸ばす。1582年、伊達輝宗が小斎城を奪取したとき、これに参陣している。しかし1584年の輝宗の子・伊達政宗の家督譲渡には否定的で、二本松畠山氏の畠山義継の子の義綱と定綱の娘を娶せる政略結婚による同盟を結んでおり伊達氏から離反した。
しかし、政宗に攻められて小手森城を撫で切りに遭うなど一方的に攻撃され、二本松畠山氏や蘆名氏を頼った。大崎合戦に乗じて攻め入る等それから幾度か伊達領を侵したが、1588年頃に弟の片平親綱と共に伊達氏に降伏する。
その後は政宗に従って1589年の摺上原の戦いや文禄の役、慶長の役にも参陣し、1590年の葛西氏、大崎氏の旧臣による反乱鎮圧にも功績を立て、胆沢郡前沢に所領を与えられた。子の重綱の時代には、それらの功績を賞されて、伊達氏の一門衆として厚遇された。