多賀城碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
多賀城碑(たがじょうのひ)は、宮城県多賀城市大字市川にある古碑(奈良時代)であり、平成10年6月国の重要文化財に指定されている。書道史の上から、那須国造碑、多胡碑と並ぶ日本三大古碑の一つとされる。
目次 |
[編集] 概略
碑身は高さ約1.86m、幅約1m、厚さ約50cmの砂岩である。その額部には「西」の字があり、その下の長方形のなかに11行140字の碑文が刻まれている。碑に記された建立年月日は、天平宝字6年(762年)12月1日。
内容は、都(平城京)、常陸国、下野国、靺鞨国、蝦夷国から多賀城までの行程を記す前段部分と、多賀城が大野東人によって神亀元年(724年)に設置され、恵美朝狩によって修築されたと記す後段部分に大きく分かれる。天平宝字6年(762年)12月1日に朝狩自身によって修築記念に建立された物である。
現在は多賀城跡内の覆堂のなかに立つ。江戸時代初期の万治~寛文年間(1658~1672年)に発見された。壷の碑(つぼのいしぶみ)とも呼ばれ、歌枕としても著名であるが、青森県の物が本物であるとする説もある。俳人松尾芭蕉が元禄2年(1689年)に訪れたことが『奥の細道』で紹介されている。
[編集] 偽作説
多賀城碑が偽作ではないかという嫌疑は古くからかけられているが、真作説が現在では有力である。
偽作説の根拠としては、奈良時代の那須国造碑などと比較すると信を置きがたいと指摘される。すなわち、書体は古風を模しているとはいえ生気が無い。陸奥鎮守府が置かれたのは神亀年間ではなく、養老年間以前である。また、朝獦が碑が建てられた天平宝字6年12月1日に参議に任ぜられているのもおかしく、位階も碑には従四位上とあるが、『続日本紀』によれば従四位下であるという。また、朝獦が東山道節度使に任ぜられたことは『続日本紀』に見当たらない。また、碑には靺鞨国とあるが、靺鞨国はすでに国号をあらため渤海と号し、当時から2代前の聖武天皇の時代から日本との交通は頻繁であるのに靺鞨国とあるのはおかしい。また、常陸国界をへだたる里程もまた正史と符合しない点がある。常陸国から陸奥国に行くには山道と海道とがあり、山道は412里であり、海道は292里である。『続日本後紀』によれば和銅年間から弘仁年間までは官道は海道であり、以後、山道を官道としたという。とすれば碑の天平宝字6年は当然、海道の里数を挙げなければならないところである。
[編集] 銘文
※実際の碑文は縦書きである。
去京一千五百里
多賀城
去蝦夷国界一百廿里
去常陸国界四百十二里
去下野国界二百七十四里
去靺鞨国界三千里
西 此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守府将
軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置
也天平宝字六年歳次壬寅参議東海東山
節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
府将軍藤原恵美朝臣朝獦修造也
天平宝字六年十二月一日