多紀元堅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
多紀 元堅(たき もとかた、文政7年(1795年) - 安政4年2月13日(1857年3月8日))は、江戸時代末期の幕府医官。名は元堅、号は茝庭(さいてい)、通称は安叔(あんしゅく)。幕府医学館考証派を代表する儒医。
江戸時代後期、医学館総裁を務めた多紀氏の分家(矢の倉多紀氏)初代。幕府医学館総裁・多紀元簡(桂山)の第五子として生まれる。町医者として市中で開業していたが、天保6年(1835年)12月16日幕府に召し出され、奥詰医師となり、翌7年(1836年)11月19日奥医師に進み、同年12月16日法眼に叙せられる。天保11年(1840年)12月16日、法印に進み、楽真院と号す(のち将軍徳川家慶の諡号「慎徳院」の「慎」と「真」の類似からこれを避け、楽春院と改称)。家斉・家慶・家定の三代に仕え、安政4年(1857年)没した。
古典医書の復元に努め、多くの医書を著し、子弟を教育した(幕末・明治初期の医師には多紀楽春院の門人と称するものが極めて多い)。森鴎外の史伝「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」等に登場する。
[編集] エピソード
- 身分の上下に拘わらず診療し、貧困の者には金を与えることもあったという。(森潤三郎著『多紀氏の事蹟』)
- 島津斉彬も患者のひとりで、天璋院の入輿にも一定の関与をしている。
- 将軍家定の臨終の場に元堅がいたというのは小説の虚構であり、事実ではない(元堅の死は家定より先である)。
- 元堅らが松本良順の考査を行なったのは、良順が蘭方医の子弟であったからではなく、幕府医官に養子が入る際には才学を確かめるという医学館の通常の職務を執行したに過ぎない。