四万十川の戦い
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四万十川の戦い | |
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戦争: | |
年月日:天正3年(1575年) | |
場所:土佐国 | |
結果:長宗我部家の勝利 | |
交戦勢力 | |
長宗我部軍 | 一条軍 |
指揮官 | |
長宗我部元親 | 一条兼定 |
戦力 | |
7,300 | 3,500 |
四万十川の戦い(しまんとがわのたたかい)は、「渡川の戦い」ともいい、天正3年(1575年)に発生した長宗我部元親の土佐(高知県)統一を決定づけた戦い。
目次 |
[編集] 戦いに至るまで
戦国時代、土佐西部の幡多地方(現四万十市一帯)に勢力を誇っていた一条氏は、藤原北家五摂家の流れを汲む名門であった。その高貴な家筋によって周囲の豪族を従え、和をもって土佐西部に大きな勢力を誇っていた。しかし長宗我部元親による土佐統一が現実味を帯びてくると、四万十川以東の豪族が次々と元親に下り、一条氏の影響地域は四万十川周辺と以西に押し込められてしまった。そして天正2年(1574年)2月、家臣団のクーデターによって一条氏当主・一条兼定は追放されて、妻の実家である大友氏がある豊後へと逃れた。
幡多地方はほとんど血が流れることなく長宗我部氏の統治するところとなったが、翌天正3年(1575年)、九州から戻った一条兼定が伊予宇和島で挙兵し、旧臣を従えて本拠地の土佐中村に帰郷した。すると一条家への義を感じる土豪がつぎつぎと参陣し、その兵力はたちまち3500に達した。四万十川河口部の西岸、栗本城に本陣を構えた兼定は四万十川に杭を打ち込ませ、地形を利用した迎撃の用意をはじめた。長宗我部軍が必ず来ることを承知していた。
[編集] 戦いの経過
一条方が四万十川以東の集落や中村城の城下町を襲って挑発すると、長宗我部元親はわずか3日後に7300の軍勢を率いて四万十川東岸に現れた。当時の土佐には半農半兵から一歩進んだ一領具足はあっても常備軍の制度はなかったから、短期間で多勢を揃え進軍してきた様に寡兵の一条方は仰天したと言われている。一領具足制度の有効性を物語るエピソードである。
四万十川を挟んで東西に陣取った両軍は、まず長宗我部方の挑発ではじまった。第一陣が正面から渡河をするように突出すると、一条方は渡り終えたところに弓矢や鉄砲を浴びせんと後退した。数で劣っている以上、攻めるわけにはいかない。
ここですかさず、長宗我部方の第二陣に控えていた福留隼人の騎馬隊が、川の上流に向かって駆けだした。杭のない上流から回り込まれると動揺した一条軍は部隊を分散させ、上流に向かった長宗我部軍を追った。一条方が分かれた隙を逃さず、長宗我部元親は残った全軍に一斉渡河を命じた。
一条方はただでさえ少ない兵力をさらに分散させてしまったため、正面から迫る倍以上の敵軍を迎え撃つだけの余力はなかった。しかも一条軍は寄せ集めで指揮系統は統一されていない。長年土佐の中央部で戦い抜いてきた歴戦の強者どもとまともにやり合えるわけもなく、たちまち総崩れとなり敗走した。一条方は数百名の死者を出したが、長宗我部方に被害らしい被害ははなかった。土佐における天下分け目の合戦であった四万十川の戦いは、わずか半日で終わった。夕日が中村平野を染める前に首実検を行えたほどである。
[編集] 戦いのあと
この戦いで兼定はかろうじて逃げ延び命長らえたが復讐戦の契機は訪れず、隠遁の末に10年後に40歳で死去した。一方長宗我部元親は土佐一国を完全に統一し、やがて四国制覇に赴くこととなるが天正13年(1585年)、四国平定からわずか数週間後に豊臣秀吉の侵攻を受けて夢は終わった。