君主論
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君主論(くんしゅろん Il Principe 日本語表記・イル・プリンチペ)とは、ニッコロ・マキャヴェッリがイタリア語で政治を論じた著作である。
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[編集] 概要
著作には表題はついておらず、友人ヴェットリへの手紙の中で「君主体制」に関する本を書いたと述べているため、「君主論(Il Principe)」と呼ばれるようになった。マキャヴェッリがフィレンツェ共和国で失脚し、隠遁生活中の1513-1514年に完成したと考えられており、1516年にウルビーノ公ロレンツォへの献上文を付してヴェットリに託された。写本で読まれ、マキャヴェッリの死後、1532年に刊行された。
26章からなり、歴史上の様々な君主および君主国を冷静に分析し、君主とはどうあるものか、君主として権力を獲得し、また保持しつづけるにはどのような能力(徳、ヴィルトゥ)が必要かを論じた著作である。 最初の第1章において「君主政体にどのような種類があるか」挙げ、その一つ一つについてを続く第2章から第11章までで解説する。第12章から第14章まではいかなる君主政体においても必要となる軍備について述べる。第15章から「臣民や味方に対する君主の態度と政策がどのようにあるべきか」と本来の意味での君主論に移る。マキャヴェッリはチェーザレ・ボルジアに理想的な君主の能力を見ている。第24章からは現実のイタリアに目を向ける。当時、イタリアは多くの小国に分裂し、外国の圧迫を受けて混乱の最中にあったが、イタリア統一への願いから「統一を実現しうるのはいかなる君主か」を論じ、メディチ家への期待を述べて論を終える。メディチ家に取り入り、職を得ようとして書かれたとも言われる。
このため、抽象的に君主はどう在るべきかを説かず、ギリシア・ローマ時代からの歴史上の実例を数多く挙げながら、その成功、失敗理由を述べ、具体的な提言をするという、いわば実用書として作成された。
『君主論』は共和制を論じた『リヴィウス論』(岩波文庫『ローマ史論』)と対になるものである。本来マキャヴェッリは共和制を支持していたが、イタリア戦争前の混乱した現実に直面し、チェーザレのような強力な君主によるイタリア統一が先決と考えた。『君主論』では政治を宗教や道徳から切りはなし、醒めた眼で見た政治力学を分析している。一方、一般的にはマキャヴェッリの思想は冷酷・非道な政治を肯定するものと考えられ、マキャヴェリズムという言葉を生み出した。
尚、『君主論』と日本語訳されているが、塩野七生は、ルネサンスを題材としたBS-iのドキュメンタリー番組『イタリア 三つの都市の物語』の中で、内容は『第一人者論』と言う方が相応しいと述べている(より詳しく言うなら、市民の中から選ばれた第一人者論)。ただし、本来のラテン語のプリンケプスは「第一人者」を意味するが、西ヨーロッパの中世のプリンスは地域を独立的に支配する国王、大諸侯を意味する一般名詞であり通常、君主と訳されている。
[編集] 君主論の評価など
- マキャヴェッリは、メディチ家に献上するつもりだったが直接の反応はなかった。ただし、後に教皇クレメンス7世となるジュリオ・デ・メディチ枢機卿から『フィレンツェ史』執筆の依頼を受けている。
- カトリック教会の対抗改革の一環で禁書目録が作られた際、『君主論』も加えられ、焼き捨てられた(1559年頃)
- フランスのジャンティエは『反マキャヴェッリ論』(1576年)で裏切りを好む悪徳の作者、といった具合にマキャヴェッリを非難する。
- サン・バルテルミの虐殺の張本人と目されたメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディチは『君主論』を読んでいた可能性もある(『君主論』は、彼女の父ウルビーノ公ロレンツォに献じられていた)。
- 18世紀になると、君主論が再評価されることになる。
- 長い間、マキャヴェッリは道義や倫理を無視した冷酷な権力論を説いたと考えられてきたが、客観的、近代的な政治学の始祖と考えられるようになった。
- イタリアの歴史研究家モンタネッリは著書『ルネサンスの歴史』において、『君主論』が世界中の為政者に最も影響を与えた政治思想書である事を認めつつも、マキャヴェッリ自身は政治家・軍人として失敗だらけで何一つ実績を残せなかったことを挙げ、「挫折した理想主義者の偽悪と自己韜晦を文中から読みとれないようではダメだ」と述べている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Il Principe at MetaLibri(PDF eBook)