加藤景廉
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加藤 景廉(かとう かげかど、仁安元年(1166年)? - 承久3年(1221年))は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。
藤原利仁の流れを汲む加藤景員の子。通称は藤次郎。子に景長・景義・遠山景朝(遠山氏祖)ら。美濃岩村城の創設者としても著名な人物。
[編集] 経歴
加藤氏は元々伊勢国を本拠としていたが、景廉は兄の景正とともに伊豆国に下り、狩野茂光らの協力を得て土着勢力となった。治承4年(1180年)に源頼朝が平氏打倒のため挙兵すると、いち早くその麾下に参じ、平氏の目代・山木兼隆を討ち取るという大功を立てた。
頼朝が石橋山の合戦に敗北した後、領地であった甲斐国大原荘(富士吉田市、富士河口湖町)に逃れるが、その後の平氏追討や奥州征伐に参戦し、やがて鎌倉幕府内で重きをなす。
正治2年(1200年)に梶原景時が謀叛のかどで誅滅されると、これと親しかったため一旦は連座して地位を失う。しかしその後、和田合戦などの諸戦で幕府方として働き、再度元老の座に返り咲いた。三代将軍実朝が暗殺された際、警備不行き届きの責任を感じて出家。
[編集] 末裔
後世、景廉の子孫は伊勢、伊豆、甲斐、美濃、尾張、三河、その他全国に広まった。豊臣秀吉の直臣として活躍した加藤嘉明や、江戸時代の町奉行・遠山金四郎景元はその一族と伝わる。
[編集] 参考文献
網野善彦「『加藤遠山系図』について」『中世古文書の世界』