劉氏
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劉氏(りゅうし)とは、中国の氏のひとつ。現代中国において最も数の多い五大姓(李・王・張・趙・劉)の一つに数えられる。歴史的には漢(前漢、後漢、蜀、劉宋、前趙、後漢 (五代))の国姓である。
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[編集] 劉氏の起源
- 堯の子孫である祁姓の劉氏。堯の嫡流(一説には堯の長孫の式、一説には堯の第九子の源明、一説には堯の子の丹朱)の子孫が劉邑に封じられ、以来その地名を氏としたという。
- 祁姓劉氏からは、夏孔甲の世に一人の竜を御する名手が現れている。劉累という。一頭の竜が病死するということがあったあとは、劉累は家族を伴って魯陽(今の河南の魯山)に逃れた。これが河南劉姓の起源とされる(一説には、劉累の故地は河南偃師であったともいう)。
- 劉累の子孫からは御龍氏(職業を氏とした)、唐氏(周初の「興滅継絶」の時期に堯の故地の唐を氏とした)、杜氏(周の成王が劉累の子孫を杜に移した)、士氏(杜氏の杜伯の子の隰叔が晋に移り,士師に任じられたことから、官職を氏とした)、范氏(晋の士会(范武子)が范に封じられ,地を氏とした)の各氏が出た。
- 周文王の後裔の姬姓の劉氏。周成王が曾祖父の王季の子孫を劉に封じたが(河南偃師)、後に絶えた。後に、定王が劉邑に王弟の王季子(父は頃王)を封じ、季子は劉康公を称し、劉国を建てた。但し周後期には、この支流は没落した。
なお姫姓と祁姓はともに黄帝を祖としている。
[編集] 漢の劉氏
[編集] 前漢の劉氏
前漢の劉氏の起こりは沛の農民の生まれである劉邦が秦の始皇帝死後の混乱に乗じて台頭し勢力拡大、宿敵である項羽を討って漢を建国した。 以来、劉氏は漢の皇室として存続してきた。しかし、皇室の外戚であった王莽が前漢最後の皇帝 孺子嬰より禅譲を受けると、一度、皇室としての劉氏は滅亡した。漢高祖の劉邦については多くの伝承があり、家系については様々な議論があったが、司馬貞は「晋の士会の子孫」としているが、これに対して銭大昕は「劉太公(劉邦の父)以前は姓を考えるような身分ではなかった。どうして祖先の姓が分かるだろうか」と述べている。正史とされる史書の中では漢書と新唐書が劉邦の出自に言及している。贊曰:《春秋》晉史蔡墨有言:陶唐氏既衰,其後有劉累,學擾龍,事孔甲,范氏其後也。而大夫范宣子亦曰:「祖自虞以上為陶唐氏,在夏為禦龍氏,在商為豕韋氏,在周為唐杜氏,晉主夏盟為范氏。」范氏為晉士師,魯文公世奔秦。後歸於晉,其處者為劉氏。劉向云戰國時劉氏自秦獲于魏。秦滅魏,遷大樑,都于豐,故周市說雍齒曰:「豐,故梁徙也。」是以頌高祖云:「漢帝本系,出自唐帝。降及于周,在秦作劉。涉魏而東,遂為豐公。」豐公,蓋太上皇父。其遷日淺,墳墓在豐鮮焉。及高祖即位,置祠祀官,則有秦、晉、梁、荊之巫,世祠天地,綴之以祀,豈不信哉!由是推之,漢承堯運,德祚已盛,斷蛇著符,旗幟上赤,協於火德,自然之應,得天統矣。(以上漢書高帝紀第一より) 劉 氏 出 自 祁 姓 。 帝 堯 陶 唐 氏 子 孫 生 子 有 文 在 手 曰: 「 劉 累 」 , 因 以 為 名 。 能 擾 龍 , 事 夏 為 御 龍 氏 , 在 商為 豕 韋 氏 , 在 周 封 為 杜 伯 , 亦 稱 唐 杜 氏 。 至 宣 王 , 滅 其國 。 其 子 隰 叔 奔 晉 為 士 師 , 生 士 蒍 。 蒍 生 成 伯 缺 , 缺 生士 會 。 會 適 秦 , 歸 晉 , 有 子 留 於 秦 , 自 為 劉 氏 。 生 明 ,明 生 遠 , 遠 生 陽 , 十 世 孫 , 戰 國 時 獲 於 魏 , 遂 為 魏 大 夫。 秦 滅 魏 , 徙 大 梁 , 生 清 , 徙 居 沛 。 生 仁 , 號 豐 公 。 生煓 , 字 執 嘉 。 生 四 子 : 伯 、 仲 、 邦 、 交 。 邦 , 漢 高 祖 也(以上唐書表第十一より)
[編集] 後漢の劉氏
前漢の後を受けて建国された新は、民心をつかめず崩壊し、前漢の皇族であった劉秀が光武帝として即位。後漢を建国した。前漢の劉氏の系譜をひくが、後漢では前漢の皇族に対しては冷遇したとされる。
[編集] 蜀漢の劉氏
後漢が衰退すると、中国国内は群雄割拠の状況に陥り、やがて魏(曹魏)、呉(孫呉)、蜀漢(蜀)の三国が覇権を争った。このうち、蜀漢は前漢の景帝の第八子である中山靖王・劉勝の庶子の陸成亭侯・劉貞の直系の末裔と称した劉備が建国した国である。但し、後漢の禅譲を受けた魏やその魏から禅譲を受けた晋から見て、かつての蜀漢の臣だった陳寿は立場上、蜀漢を後漢の正当な継王朝と扱っていないため、四川の旧称である『蜀』として表記される場合も多い。 現在、中国の劉氏の多くは自らの家系を劉備につなげている(詳しくは劉備を参照)
[編集] その他の劉氏
以降の歴代漢王朝の滅亡後も劉氏の数は増え続け、宋 (南朝)の皇室を初め、匈奴の前趙や五代十国時代の後漢 (五代)が劉氏を名乗るなどとした。
劉宋(宋漢)の高祖・劉裕は前漢の高祖・劉邦の弟(従弟の説あり)である楚元王・劉交の子孫と自称していたが、実際には、単なる貧しい東晋の下級官吏の出身であった。本人曰く「俺が前漢の楚王の末裔であるはずがないだろう」と皇帝に即いてから、自らの家系を偽称していたことを認めたという。
[編集] 海外の劉氏
4世紀から6世紀にかけて日本列島に多く渡来した中国系の渡来人の多くが劉邦または漢王室の子孫を称している。特に東漢氏と西漢氏が有名である。ちなみに坂上田村麻呂は東漢氏の子孫である。 朝鮮半島にも劉姓は存在しており、中でも中国宋の神宗の時代に朝鮮に帰化した劉筌を始祖とする江陵劉氏が最も大きい。ちなみに劉筌は劉邦の40世孫であるという。