前田利平
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前田 利平(まえだ としひら)は、加賀大聖寺藩の第11代藩主。
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時代 | 江戸時代後期 | |||
生誕 | 文政6年12月22日(1824年1月22日) | |||
死没 | 嘉永2年7月7日(1849年8月24日) | |||
別名 | 鈺七郎(幼名) | |||
諡号 | 弘斎 | |||
戒名 | 見竜院殿存誠洗心大居士 | |||
墓所 | 石川県加賀市の実性院 | |||
官位 | 従四位下、備後守 | |||
藩 | 加賀大聖寺藩主 | |||
氏族 | 前田氏 | |||
父母 | 父:前田利之、母:小原氏(蓮静院) 養父:前田利極 |
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兄弟 | 造酒丞、前田利極、緩次郎、 前田利建、鈴、前田利平、建、桂 |
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妻 | 正室:井上正春の娘 側室:竹内氏 |
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子 | 2男1女(鋼吉郎、哲二郎(奇峯院)) 養子:前田利義 |
文政6年(1823年)12月22日、第9代藩主・前田利之の六男として大聖寺で生まれる。天保9年(1838年)、異母兄で第10代藩主の前田利極が死去したため、その養子として後を継いで藩主となる。財政悪化により、倹約を強化し、さらに10万石の格式をもとの7万石に戻して歳出を抑え、維持費のかかる居館の処分などを図ったが、いずれも本家加賀藩が反対したために失敗している。また、文治の奨励も行なった。
嘉永2年(1849年)7月7日、大聖寺で死去。享年27。後を養子の利義が継いだ。
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