准如
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准如(じゅんにょ、1577年8月3日(天正5年7月9日) - 1631年1月2日(寛永8年11月30日))は安土桃山時代、江戸時代の人物。本願寺第十二世門主。十一世門主の顕如の三男で、教如の弟。諱は光昭。准如が父と対立した兄に代わって門主を継いだことをきっかけに、本願寺は東西に分裂した。
石山戦争の折、父顕如は織田信長と和睦し、1580年に石山本願寺を退去、紀伊鷺森に移った。その後、顕如は豊臣秀吉に寺地を与えられ大坂天満に移ったが、1591年秀吉により現在の本願寺の地である京都の七条堀川に再び寺地を与えられ移転。これに伴い准如も京都に入るが、翌1592年に顕如が没すると、1593年に准如が本願寺第十二世を継いだ。
西本願寺の主張によると、もともと兄の教如は1580年の石山本願寺退去の折、織田氏への抗戦継続を断念した父に背いて石山本願寺に篭るなど父と不仲で、また、織田氏を継承した秀吉にも警戒されており、自然と准如が立てられるようになったという。顕如の次男である興正寺顕尊(教如の同母弟)は准如の後見人として自分の娘を正室として迎えさせるなど准如の支持に回った。最終的に准如の母が信長の家臣であった秀吉に頼み込んで三男の相続が実現したという。准如自身も兄の教如とは異母兄弟で(母は同じ如春尼という説もある)折り合いが悪かったとされる。
しかし、豊臣秀吉の死後、豊臣家を倒した徳川家康は教如を支持し、1602年に教如に烏丸七条に寺地を与えて東本願寺が建立された。このため准如が継承した七条堀川の本願寺は西本願寺と呼ばれるようになり、本願寺教団は東西に分裂した。
その後、准如は1608年に勅命により大僧正となり、大坂に津村別院を、江戸に築地別院を建立して西本願寺の拡大に努めた。
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