佐野藩
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佐野藩(さのはん)は、下野国に存在した藩。(現:栃木県佐野市植下町)佐野陣屋に藩庁が置かれた。
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[編集] 藩史
佐野3万9000石の所領を支配していた佐野氏は下野の名族・小山氏の一族で、佐野荘を支配したことが起源であるといわれている。居城の唐沢山城は佐野昌綱(佐野氏第15代当主)の時代に上杉謙信の猛攻を10回も受けたが、全て撃退するという恐るべき堅城であった。このことから、唐沢山城は関東七名城の一つにまで数えられている。
佐野氏は上杉氏、北条氏といった大勢力に囲まれ、常に所領の安堵を第一として寝返りを繰り返していた。しかし第17代当主・佐野宗綱のとき、長尾顕長との戦いに敗れて宗綱が戦死してしまい、一旦断絶する。しかし宗綱の叔父(弟とも)に当たる佐野房綱が豊臣秀吉に仕えることで佐野氏は再興したのである。
房綱の後は養子の佐野信吉が後を継いだが、徳川家康のとき、信吉の実兄に当たる伊予宇和島藩主・富田信高の改易に連座して信吉も改易されてしまった。一説においては、江戸に火災があったとき、山上にある唐沢山城よりこれを発見し、早馬で江戸に駆け参じたが、江戸を見下ろせる所に城を構えるは何たることか、許可を得ずに国を離れたのも良くないとして、佐野藩廃藩となったいう説もあるほどだ。どちらにせよ、唐沢山城ほどの堅城を外様の大名に支配させておくことを幕府が危険視したのかもしれない。
その後、佐野藩は廃されて天領となるが、4代将軍・徳川家綱時代の大老・酒井忠清の「宮将軍案」に真っ向から反対して、家綱の弟である徳川綱吉を将軍に擁立したことで有名な老中(のち大老)・堀田正俊が、その遺領の内から下野都賀郡、安蘇郡の内、1万石を三男・堀田正高に与えて別家を立てることを許され、佐野に城地を定め、佐野藩が再興した。
しかし、堀田正高は近江堅田へ移封され、再び佐野藩は廃されて天領となる。正高から4代おいて、堀田正敦が再び、近江堅田より移封されて佐野藩が再興し、以後は堀田氏の支配で明治時代にまで至った。
[編集] 現存する建物
現存するものとして陣屋表門が東光寺中門として移築されている。
[編集] 歴代藩主
[編集] 佐野家
3万9000石(外様)
[編集] 天領
[編集] 堀田家
1万石(譜代)
[編集] 天領
[編集] 堀田家
1万3000石→1万6000石(譜代)