佐藤彦五郎
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佐藤 彦五郎(さとう ひこごろう、文政10年9月25日〈1827年11月14日〉 - 明治35年〈1902年〉9月17日)は、日本の村役人(名主)。下佐藤家当主で、日野宿組合名主。江戸幕府の京都警備組織である新選組の後援者で、多摩地方の地域指導者。初代南多摩郡長。雅号は春日庵盛車。維新後は俊正を名乗る。
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[編集] 略歴
武蔵国多摩郡日野宿で生まれる。父は半次郎。母はまさ。長男であった彦五郎は11歳で祖父の10代彦右衛門から日野本郷名主、日野宿問屋役、日野組合村寄場名主を継ぐ。
弘化2年、かぞえ19歳で石田村の土方歳三(のちの新撰組副長)の姉で従妹にあたるとくと結婚。嘉永2年(1849年)1月18日、かぞえ23歳の時に日野宿を焼く大火染っ火事にみまわれて武芸の必要性を感じ、翌嘉永3年に天然理心流3代目宗家近藤周助の門人となる。自邸東側の一角に日野宿では初となる出稽古用の道場を設け、後の新撰組の母体となる近藤勇、土方歳三、沖田総司らが出稽古に訪れていた。(後日長屋門に再建された道場とは別物である。)安政2年9月20日に小野路村組合の寄場名主小島鹿之助が近藤と義兄弟の杯を交わしたことに影響され、同じく近藤と義兄弟の杯を交わしている。
[編集] 新選組との関わり
文久3年(1863年)に近藤勇や土方歳三らが、幕府が募集した浪士組に参加して上洛すると、彦五郎は近藤らに支援を続け、のちに新選組となったあとでも、書簡など、親交は続き、上方情勢が逐次伝えられたことは、多摩地方の地域指導者の政治意識にも影響しているとも指摘される。たとえば、土方歳三が京都から上田村(かみだむら/現在の東京都日野市上田)の親戚に書き送った手紙には「委細は彦五郎さんに聞いてくれ」と書いたものが遺されている。資金面など何かにつけ佐藤家とは手紙のやり取りをし、頼みとしていたことが窺われる。
また、近藤勇の上京後、天然理心流当主の空白期間を穴埋めすべく、多摩近在の道場まで出張稽古を行っている。
[編集] 農兵の組織
この文久3年は多摩地方で農兵の取立てが行われ、日野宿組合を中心に農兵隊が編成された。特筆すると慶応2年(1866年)の武州一揆鎮圧や八王子壷伊勢屋での薩摩浪士捕縛などで活躍している。
戊辰戦争が勃発した慶応4年3月、鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸に戻ってきた近藤勇たちを迎え、彦五郎は春日盛と称し、農兵隊(春日隊)を組織し、甲陽鎮撫隊に加わった。しかし、敗れて帰郷すると、地縁を頼り潜伏し、官軍の追及から逃れて身を隠れたが、翌月、日野宿有志の歎願により公職に復帰した。
[編集] 晩年
明治維新(多摩地方では「瓦解」)後は小島鹿之助らと共に近藤や土方などの新選組隊士の復権と顕彰に尽力した。現在、高幡不動の境内に「殉節両雄之碑」が建てられているが、この建立にも関わっている。1872年(明治5年)名を俊正と改め、1878年(明治11年)郡区町村編制法により多摩郡が東西南北に分けられたとき初代南多摩郡長となっている。1902年(明治35年)没。享年かぞえ76歳
[編集] 俳句
- 辻風に まけて曲るな 今年竹
- 花毎に 一と葉つゝ添ふ 葵かな
近藤勇への追悼句
- 鬼百合や 花なき夏を 散りいそく
土方歳三への追悼句
- 待つ甲斐も なくてきえけり 梅雨の月