佐々木宗綱
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佐々木宗綱は(ささきむねつな、 1248年(宝治2年)? - 1297年9月27日(永仁5年9月10日))は鎌倉時代中期の武将。佐々木氏支流京極氏の当主であり京極宗綱(きょうごくむねつな)とも呼ばれる。
[編集] 経歴
1248年(宝治2年)、有力御家人である佐々木氏信の四男として生まれる。
1287年(弘安10年)、幕府が朝廷に対し、大覚寺統の後宇多天皇から持明院統の伏見天皇への譲位を促した際には、その使者となっている。
1289年(正応2年)には、久明親王が征夷大将軍に就任し六波羅探題へ向かった行列に、随行している。
1295年(永仁3年)に父が亡くなり、別家を立てた長兄の頼氏、早世した兄の範頼、満信に代わり家督を継ぐ。
1297年(永仁5年)9月10日に50歳で亡くなる。
生前は能登守に任じられていた。長男の祐信は意に叶わなかったとされ、次男の時綱は早世していた為、三男の貞宗が後を継いだ。
[編集] 史料
- 西讃府史
- 勘仲記
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