伊賀流
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伊賀流(いがりゅう)とは、甲賀流と並んで忍術の中で最も有名な流派の一つ。
今の三重県伊賀市と名張市にあった。普段は農業をしたり、行商をしたりして各地の情報を探る一方、指令が下ると戦場やその後方へ出向き、工作活動に励んだ。
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[編集] 特徴
山を一つ隔てた場所に存在する甲賀流と異なる点は、甲賀忍者が1人の主君に忠義を尽くすのに対し、伊賀忍者は金銭による契約以上の関わりを雇い主との間に持たない点であるとされる。
また、伊賀流の訓練法は独特さをもって知られており、例えば顔の半分を紙で覆い、紙を顔から落とす事なく一里以上を走りぬく等、幼少の頃から厳しい訓練のもと、優れた忍者を育てる事を伝統としてきた。伊賀郷士はしばしば雇い主が敵同士の場合でも、依頼があれば双方に忍者を派遣する実例をも持つ。そのため他の郷の忍者よりも一層、例え仲間であろうと即座に処断できるような厳酷な精神も求められた。「抜忍成敗」はその極みとも言うべき物で、裏切りや脱走はいかなる事があっても認めない、という物である。
[編集] 歴史
伊賀は「伊賀惣国一揆」と呼ばれる合議制の自治共同体が形成されていた。だが伊賀の場合、実力者である上忍三家(服部・百地・藤林)の発言力が強く、合議を開いても彼らの意見に従うことが多かった。逆に甲賀は「惣」と呼ばれる自治共同体を形成していたが、各々が対等な立場にあった為に多数決の原理を重んじ、「伊賀惣国一揆」の運営ぶりとは対照的であった。一般的には伊賀と甲賀は互いに相容れない宿敵同士というイメージがあるがこれは誤解であり、一つ山を挟んだ、言わば隣人同士で争いあっても何の得も無い。むしろ伊賀の人々と甲賀の人々は常に協力関係にあり、どちらかの土地に敵が攻め込んだ場合は力を合わせて敵を退けるよう約束していた。
[編集] 天正伊賀の乱
1579年、伊賀忍者の一人・下山甲斐は仲間を裏切り、織田信長の次男信雄に伊賀の団結力が衰えだしたことを報告し、侵略を進言した。下山の言葉に乗った信雄は直ちに国境にあった丸山城を修築し、侵略の拠点とすることにした。だが信雄の企みはいち早く伊賀の人々の耳に届き、放たれた忍者達の奇襲によって信雄は大敗を喫してしまう。これが第一次伊賀の乱である。
この結果に激怒した織田信長は、勝手に軍を動かした信雄に激怒し絶縁すると脅して諫める一方、2年後の1581年には自らおよそ四万の兵を率いて伊賀に攻め込んだ。これを第二次天正伊賀の乱という。驚いた伊賀の人々はすぐさま総力を挙げて信長と戦うことを決意する。だがかねて協力体勢にあったはずの甲賀忍者の一人・多羅尾光俊の手引きにより伊賀忍者からさらに二人の離反者が発生し、織田方の蒲生氏郷の道案内をおこなった。これにより伊賀の人々が立て籠もった城は次々と落ち、最後の砦・柏原城が落ちた時点をもって天正伊賀の乱は終わりを告げた。
[編集] 乱後
しかしその後も生き残った伊賀忍者は徹底的に探し出され、処刑された。刎ねられた首の数は一日に三百から五百ともいわれ、合計すると数千ともいう。それでもなお伊賀の忍者達全員を殺すことはできず、捜索の手から逃れた忍者達は全国に散った。やがて本能寺の変で信長の死を知った伊賀忍者たちが一斉蜂起し、各地で争いを繰り広げた。
たとえば本能寺の変の直後、堺にいた徳川家康が服部正成らに護衛されながら三河国へ逃げ戻ったことなどは有名である。これを伊賀越えと呼ぶ。
[編集] 江戸時代
江戸時代には、上述の「伊賀越え」の功績を認められ、一般に服部半蔵として知られる服部正成のもとに伊賀組同心として幕府に召し抱えられている。なお、このことから服部正成自身も忍者であったかのように言われることがあるが、正成自身はむしろ普通の戦働きでならした侍であったらしい。詳しくは服部正成の項目を参照のこと。
因みに、甲賀の地が織田信長を経て豊臣秀吉の支配下に入ると、甲賀忍者達は徳川家康の監視活動を主な任務に命じられる。その結果、伊賀忍者が甲賀忍者追討の任にあてがわれた。この事は江戸時代になって、「伊賀忍軍対甲賀忍軍」という形で講談や読本の題材となった。が、実際にはこれは徳川と豊臣との代理戦争に他ならなかったのである。