三条公教
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三条公教(さんじょうきみのり(「きんのり」とも)、康和5年(1103年)-永暦元年7月9日(1160年8月12日))は、平安時代後期の公卿で藤原北家閑院家流三条家当主。父は太政大臣三条(藤原)実行。鳥羽・後白河両院政下で活躍した。
母方の祖父藤原顕季の引き立てで13歳で鳥羽天皇の侍従となった公教は、天皇が寵愛する従兄弟の美福門院(顕季の孫娘)との関係を利用して31歳の若さで公卿に列した。退位して院政を始めた鳥羽法皇も公教の質実で勤勉な態度を高く評価して院庁の執事別当として裁判・行政の中枢を任せた。
1155年、美福門院所生の近衛天皇が急死すると、権大納言であった公教は鳥羽法皇・関白藤原忠通らごく数人と秘密裏に会議を開いて後白河天皇の即位を決定した。翌年鳥羽法皇の崩御直後に保元の乱が起こると、公教は忠通・藤原信西とともに後白河天皇の傍に近侍した。乱で天皇方が勝利すると、延期されていた鳥羽法皇の葬儀を執り行い、また信西の勧める記録所復興に賛同してその長官に就任した。これらの功績が評価されて1157年に内大臣(前年からの左大将を兼務)に就任している。
だが、その3年後に父である実行よりも先に急逝してしまうのである。ちなみに娘は忠通の息子松殿基房(後の摂政関白)に嫁ぎ、次男実国は滋野井家、三男公宣は姉小路家を起こしている。