ヴャチェスラフ・プレーヴェ
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ヴャチェスラフ・コンスタンチノヴィッチ・プレーヴェ(Вячесла́в Константи́нович Пле́ве、Vyacheslav Konstantinovich Plehve、英語版では、フォン・プレーヴェ、von Plehve、1846年4月4日(グレゴリオ暦4月20日) カルーガ県メショフスク Meshchovsk - 1904年7月15日(グレゴリオ暦7月28日) ペテルブルク)は、帝政ロシアの警察官僚出身の政治家。ツァーリズム下の保守反動政治家の一人。
[編集] 経歴
モスクワ大学で法学を学んだ後、1867年検事補となる。司法省でいくつかのポストを勤め、1881年皇帝アレクサンドル2世の暗殺事件捜査を担当し、内務省に移り警察局長に就任し、オフラーナの管理にも当たった。1884年内務次官。1902年暗殺されたドミトリー・シピャーギンの後任として、内相に就任する。
プレーヴェは、知的であったが、無慈悲なまでに厳格な性格であり、反ユダヤ主義者、保守反動政治家として振舞った。政治的情報収集に精力的に動き、多数の革命家や穏健な改革派に致命的な打撃を与えた。内相就任直後、ハリコフ県、ポルタヴァ県の農民蜂起を弾圧したほか、ゼムストヴォを懐柔する試みに失敗したため、1903年には、キシニョフでのユダヤ人に対するポグロムを扇動した。また、対外的には、対日強硬派であり、セルゲイ・ヴィッテと反目し、日露戦争開戦を主張した。
プレーヴェは、革命家達のテロの目標となり、1903年と1904年に、社会革命党戦闘団(戦闘団の指導者は、エスエル幹部で警察のスパイでもあったエヴノ・アゼフであったが)によって暗殺未遂事件が起きている。1904年7月28日、サンクト・ペテルブルクでエスエル(社会革命党)のエゴール・サゾーノフに暗殺された。(その為の内部工作は大日本帝国陸軍の明石元二郎がしていた。)その死は、テロリズムに反対していた人々からも歓迎されたという。
プレーヴェ暗殺後、ツァーリ政府は、穏健派のスヴャトポルク=ミルスキー公爵を後任の内相とした。
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