ローデシア
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ローデシア(Rhodesia)はザンビア・ジンバブエを合わせた名称。また1965年から1980年にかけてのジンバブエを実質支配していた白人政権が用いた名称。
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[編集] 南アフリカ会社による開拓
現在のローデシアにあたる地域は1850年代に探検家デイヴィッド・リヴィングストンによって探検が行われた。
その後、ケープ植民地の首相だったセシル・ローズが、ボーア人による植民地国家トランスバールやオレンジ自由国への圧力と北方地域の開拓を目的に1889年にイギリス南アフリカ会社を設立。翌年にはマタベレランドやマショナランドの鉱山開発権を獲得、両地方を併合して「Rhodesia(ローズの家)」と名づけ、さらに1890年には現在のザンビア南部にあたるパロツェランドでも鉱山開発権を獲得、北方へと勢力を伸ばした。
しかし当初の目的だった鉱山開発は目論見通り進まず、会社は農業植民へと方針を転換。黒人部族の反乱を鎮圧しながら南ローデシアを中心に白人の植民が進むが、それでも会社の業績は好転せず1923年には白人のみの住民投票で南ローデシア自治政府が樹立。翌年には北ローデシアもイギリスの直轄植民地となった。1925年にカッパーベルトと呼ばれる銅鉱山が北ローデシアで発見され、これを契機として北ローデシアでも開発が進む。
[編集] ローデシア・ニヤサランド連邦の成立と解体
北ローデシアでの開発が進むと、南ローデシアの白人を中心に南北ローデシアにニアサランド(現在のマラウイ)を含めた合併を要求、これに応える形で1953年にローデシア・ニヤサランド連邦が成立したが、アパルトヘイト政策を採っていたことから黒人側の不満が高まり1963年には連邦を解消。翌1964年には北ローデシアがザンビアとして独立を果たす。
[編集] 白人政権による支配
白人の支配が強かった南ローデシアでも黒人の抵抗運動が強まり、1961年にはソ連の支援でジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)が、1963年には中国の支援でジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)がそれぞれ結成されゲリラ戦を戦う様になる。一方で白人の農園主を中心にローデシア戦線が結成され、1964年には同戦線を率いていたイアン・スミスが南ローデシア自治政府首相に就任して黒人の抵抗運動を徹底的に弾圧した。
これに対し、周辺諸国が独立するのを見越してイギリスは黒人を含めた参政権を保障する形での独立を南ローデシアにも求めたが、白人政権はこれを拒否。1965年11月11日に一方的に独立を宣言し、イギリスから派遣されていた総督を追放しローデシア共和国と名乗った。国際連合はこれを非難し1966年に部分的経済制裁を、1968年には全面経済制裁を実行したが、同じアパルトヘイト政策を取っていた南アフリカ共和国やポルトガル領だったモザンビークから物資が輸出されたり、基幹産業を白人の地元資本が担うようになったり殆ど効果が無かった(むしろローデシア経由で銅鉱石を輸出していたザンビアが打撃を受け、タンザン鉄道への建設へとつながっていく)。
一方で黒人側のゲリラ戦線も激しさを増し、白人政権側もポルトガルや南アフリカの軍事援助や傭兵を雇い入れたりして黒人ゲリラと内戦に突入した。都市部でも黒人暴動が頻発し度々動員令を出さざるを得ず、加えて1975年にモザンビークが独立してしまうと黒人ゲリラに加担する動きを見せた。このため当初は好調だったローデシア経済も次第に疲弊の度を強め、アメリカの調停もあって1979年には国名をジンバフエ・ローデシアと改称。黒人の参政権を認めるが、政府閣僚には多くの白人が関与し再編成される国軍も白人主体となるなど白人の既得権益が保障されたままだったため黒人の抵抗運動は激化。結局同年8月に政府と反政府ゲリラとの間で締結されたランカスターハウス制憲協定によって、新憲法を制定。一旦イギリス領に戻した上で1980年にジンバブエ共和国として正式に独立した。
[編集] 関連項目
- ローデシア・ニヤサランド連邦
- 南ローデシア
- 北ローデシア
- 英領ニヤサランド
- ローデシア軍
- ローデシア (小惑星)
[編集] 外部リンク
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