リューリク朝
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リューリク朝は、中世時代のキエフ大公国の王朝である。
[編集] 概要
伝説によると、リューリク朝の創立者はリューリクというノルマン人の長である。彼はスラヴ人の町であったノヴゴロドを支配下に置き、キエフ現地の大公朝を滅ぼし、自分の幼い息子イーゴリをキエフの統治者にした。その息子の摂政であったオレグ公は、キエフの元でキエフ大公国(ルーシ)を建国して、死後にイーゴリに譲った。イーゴリの息子、スヴァトスラヴ1世はキエフ大公国をさらに拡大させた。その数人のキエフ支配者の中でスヴァトスラヴ以外は半伝説的人物であり、『ルーシ年代記』にしか出てこない。故に、スヴァトスラヴ1世は多数の史料で裏付けることができる「リューリク朝」の初の代表者、若しくは創立者であるかも知れない。
スヴァトスラヴ1世の息子であったヴォロディーメル1世からリューリク朝は始めて支流に分かれた。それはヴォロディーメル1世の息子、イジャスラヴの子孫からなるポロツク大公朝の分流であった。ポロツク大公朝からさらに、現在のベラルーシとリトアニアの諸大公家が誕生した。
ヴォロディーメル1世のもう一人の息子、ヤロスラフ賢公の子孫たちはリューリク朝の分流を深めた。ヤロスラフ賢公の三男であったスヴァトスラフ2世の子供・子孫たちはチェルニーヒウ大公家、ノヴゴロド・シヴェルスク大公家とムロム・リャザニ大公家という三つの大きい大公家に分かれた。ヤロスラフ賢公の四男であったフセヴォロド2世の子供・子孫たちはモノマフ大公家という嫡流で、ハールィチ・ヴォルィーニ大公家、スモレンスク大公家とスーズダリ大公家に分かれた。
12-13世紀になると、その多数の支流のあいだにキエフ大公国の全土の支配とキエフ大公の称号をめぐる争いは絶えず行われていた。その紛争の中で、ルーシの西部にハールィチ・ヴォルィーニ大公国を本拠にしていたハールィチ・ヴォルィーニ大公家と、北東のウラジーミル・スーズダリ大公国を本拠にしていたスジダリ大公家は力をつけて、ルーシの最強の家柄となった。1240年にモンゴルの侵略によってキエフ大公国が滅ぼされた結果、前者はルーシの王朝となり、後者はモスクワ大公国の大公朝となった。1340年代にはハールィチ・ヴォルィーニの王朝は絶え、1598年にモスクワの大公国の大公朝が断絶した。
リューリク朝の嫡流がなくなったが、リトアニア系・ベラルーシ系・ウクライナ系・ロシア系の庶流は生き残った。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- Войтович Л. В Генеалогiя династii Рюриковичiв. К,, 1990.
- Войтович Л. В. Генеалогiя династii Рюриковичiв i Гедемiновичiв. X., 1992.
- Войтович Л. В. Удiльны князiства Рюриковичiв i Гедемiновичiв у XII—XVI ст. Львiв, 1996.
- Долгоруков П. кн. Российская родословная книга, ч. І. - М., 1854
- Власьев Г. Потомство Рюрика, т. І, ч. 1-3. - П., 1906-1907
- Baumgarten N. Généalogie et mariages occidentaux des Rurikides russes du X-e au XII-e siecle. - Roma, 1928
- Baumgarten N. Généalogie des branches reenantes de Rurikides du XIII-e au XVI-e siecle. - Roma, 1934