リカルド・パレッティ
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F1での経歴 | |
国籍 | イタリア |
生年月日 | {{{生年月日}}} |
没年月日 | {{{没年月日}}} |
車番 | {{{車番}}} |
所属チーム | オゼッラ |
活動時期 | 1982 |
過去の所属チーム | {{{過去の所属チーム}}} |
出走回数 | 2 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1982年サンマリノGP |
初勝利 | - |
{{{今年度}}}年順位 | {{{今年度順位}}} |
(記録は{{{最新レース}}}終了時) | |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1982年カナダGP |
リカルド・パレッティ(Riccardo Paletti, 1958年6月15日 - 1982年6月13日)は、イタリア出身のレーシングドライバー。
目次 |
[編集] 経歴
F1以前には、1979年にイタリアF3、1980年前半にはヨーロッパF3に参戦。シーズン途中よりヨーロッパF2に参戦し、翌1981年もヨーロッパF2で走った。
[編集] F1
1982年に、オゼッラからF1に参戦を開始。パイオニアのスポンサーを持ち込んでのものだったが、戦闘力の低いマシンということもあり、開幕戦から予選落ちと予備予選落ちが続いた。
第4戦サンマリノGPでは予選11位となり、F1デビューを果たす。しかし、これはF1界における政治的な紛争から、FOCA系チームの大半がボイコットして参加が14台となり、予選落ちが存在しなかったことによるものだった。決勝では序盤にリタイヤしている。
その後、第7戦デトロイトGPでは、予選23位となり自力で予選を通過するが、決勝は6周目に事故で一旦赤旗中止となる。そして再スタート時には、マシンを失ったチームのエースドライバー・ジャン=ピエール・ジャリエにマシンを譲ることとなり、出走することが出来なかった。
[編集] 事故死
続く第8戦カナダGPにおいても、パレッティは前戦同様予選を23位で通過。このレースでは、フェラーリを駆るディディエ・ピローニがポールポジションを獲得していた。しかし、決勝でピローニはスタートでエンジンをストールさせ立ち往生。後方グリッドからスタートしたパレッティはその状況が分からず、アクセル全開のフル加速状態で、停車していたピローニのマシンに激突(追突)してしまった。
パレッティのマシンは前部がめり込む形となり、両足は折れ、胸をステアリングで圧迫されていた。そのうえ救助作業の最中にマシンが炎上し、消火作業で救出に時間を要する結果となった。その後病院に運ばれたが、胸郭破裂で死亡が確認された。23歳。ほぼ即死状態だったという。事故の原因になってしまったピローニは、激しく追突されたものの、ほとんど無傷だった。
この事故以来、F1では12年間レースウィーク中の死亡事故が起きることは無かった。
[編集] 補足
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