リエージュ
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リエージュはベルギー東部の工業都市で、リエージュ州の州都である。表記はフランス語で Liège (1946年以前はLiége )、ワロン語 Lîdje、オランダ語 Luik、ドイツ語 Lüttich 。
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[編集] 概要
オランダおよびドイツとの国境に近く、ムーズ川に臨む。人口185,574人、面積69.39 km²(2005年1月1日現在)で、リエージュ都市圏全体の人口は60万人ほど。交通の要衝で、ワロン地域の中心都市である。中世にはリエージュ司教領の首都として栄えたため、古都とも呼ばれる。
[編集] 歴史
[編集] 中世の初期
この地はローマ帝国時代に既に移住者がいたが、リエージュが記録に現れるのは558年のレウディクス村(Vicus Leudicus)としてである。705年頃、聖ランベルトゥスは異教徒の改宗を完了した。しかし、彼はリエージュにおいて殺害され、その後、一般に殉教者とみなされるようになった。
聖ランベルトゥスの遺骸を祭るために、彼の後継者である、聖フーベルトゥスは都市の中心的な建物となったバシリカを建設し、その近くに司教の住居を置いた。2世紀後に、都市はリエージュ司教領の首都となり、その国は985年から1794年まで続いた。最初の司教君主であるノトガー(Notger)は、都市を知的で宗教的な中心地と変えた。これによりリエージュは、中世の間、文化的な重要性を維持した。教皇クレメンス6世はアビニョンの教皇の宮廷で演奏を行うための音楽家を何人か連れてきた。それにより、宗教界で音楽の練習を行うことが認められた。
リエージュは沢山の教会で有名であり、その中で最も古いものが、682年からある聖マルタン教会である。リエージュは、名目上は神聖ローマ帝国の一部であったが、実際には、かなりの独立性を有していた。
[編集] 中世後半とルネッサンス
中世後半となると、何世紀にも渡り、リエージュの戦略的な地位の上昇のため、軍事的な目標となったり、反乱が頻繁に発生したりした。そのため、比較的早くから、都市の西側を見渡すことが可能な急な丘の上に城が建築された。
1345年に、リエージュの市民は、当時の統治者であった司教君主ラ・マルクのエンゲルベルト(Engelbert de la Marck)に反乱を起こし、軍勢を都市の近くで破った。ブルゴーニュからの支配に対する反乱の後、1468年にフランスのルイ11世と、ブルゴーニュ家のシャルル突進公は、奇襲の成功とその後の戦闘により、リエージュを占領し、都市を大きく破壊した。リエージュは、公式には神聖ローマ帝国の一部であった。1477年以後、都市はハプスブルク家の、1555年以降はスペイン・ハプスブルク家の支配を受けた。しかし、実務的な支配はその司教君主が行っていた。ラ・マルクのエラール(Erard de la Marck, 1506年 - 1538年)の統治は、リエージュにおけるルネッサンスの発生と同時期であった。対抗改革の間に、リエージュの教区は分割され、次第に宗教的な国家としてのその役割を失った。17世紀には、司教君主がバイエルンのヴィッテルスバッハ家からやって来た。彼らは、ケルンと神聖ローマ帝国の北にある他の司教領を統治した。
[編集] 第一次世界大戦前の18世紀
マールバラ公ジョン・チャーチルは、スペイン継承戦争の間の1704年にバイエルンの司教君主と同盟軍のフランス軍統治下のリエージュを占領した。18世紀の中ごろ、フランスの百科全書派の考えがリエージュに広まり始めた。ヘンズブレヒのフランソア・シャルル(Bishop de Velbruck、1772年~1784年)は布教を奨励し、これは、リエージュ革命の元となった。このリエージュ革命は、1789年8月18日に司教都市において発生した。1794年のフランス革命戦争で、フランス軍は都市を占領し、強硬な反宗教的な体制を押しつけた。そして、聖ランバートの大きな大聖堂を破壊した。1801年に司教君主と言う不自然な地位に関して、ナポレオン・ボナパルトと教皇ピウス7世によるコンコルダートにより廃止が確約された。1815年に、フランスはリエージュをウィーン会議により失い、ネーデルラント連合王国が恩賞として手に入れた。ネーデルラントの支配は1830年まで続き、独立革命により、カトリックを宗教とするベルギーの一部となった。この後、リエージュは主要な工業都市として発達し、ヨーロッパで一番最初に、大規模な鉄鋼生産が行われる様になった。
リエージュの防備は1880年代にヘンリー・アレクシス・ブリアルモン(Henry Alexis Brialmont)により再設計された。これは、都市の周りに12個の要塞のネットワークを構築し、深層防御を可能とした。これは、1914年、ドイツ軍がフランスへのルートとして、ミューズ川とアルデンヌを通り抜けるという、シュリーフェン・プランを使用した際に大きな障害となった。1914年8月5日、侵攻したドイツ軍はリエージュに到達した。
そこでは、ジェラール・ルマン(Gérard Leman)将軍の元、3万人の将兵が防衛をしていた(リエージュの戦いを参照)。要塞は、最初約10万の兵士により攻撃されたが、その攻撃は失敗した。その後、ドイツ軍の42cmビッグバーサ榴弾砲による5日間の砲撃によって破壊された。主要な要塞に隣接する地下のトンネルにおける喚起の設計に問題があり、砲弾の直撃が大爆発を引き起こし、ベルギー軍の降伏を引き起こした。ベルギー軍の抵抗は予想より短かったが、そこでの12日間の浪費はフランスへのドイツ軍の侵攻において大きな問題となった。都市は終戦までドイツにより占領された。リエージュは1914年にその防御戦闘に対する栄誉としてレジオンドヌール勲章を受けた。
[編集] 第二次世界大戦から今日まで
ドイツ軍は1940年に再度侵攻してきた。このときは、たった3日で要塞を占拠した。ほとんどのユダヤ人は、ユダヤ人に同情している人々の助けにより助けられた。同様にユダヤ人の子供たちはいくつもの修道院に隠された。ドイツ軍の支配は、1944年9月にアメリカ陸軍により駆逐されたが、リエージュは解放されてから終戦までの間1500発程度のV1飛行爆弾や、V2ロケットによる攻撃を受けた(発射された数自体はV1が計3,141発、V2が27発とされる)。
戦後、リエージュはその鉄鋼産業の崩壊の影響を受けた。これは、高い失業率と社会的な緊張を引き起こした。1961年1月、不満を持つ労働者が暴動を起こし、Guillemins中央駅に損害を与えた。この様にリエージュは社会主義者の街としても知られている。1991年に前首相であった急進的な社会主義者であるアンドレ・クールス(André Cools)が街の駐車場で銃撃された。クールスの死後、多くの人々はこの暗殺が中央政府の社会党を覆っている汚職スキャンダルと関連があると考えていた。2004年に、クールスの殺人の容疑で、2人の男性が懲役20年の判決を受けた。リエージュは近年、欧州連合に加入し国境が撤廃されたことと、鉄鋼価格の高騰、管理体制の改善により経済的な回復の兆しを示している。ショッピングセンターがいくつか建築され、多数が修繕された。
[編集] 交通
- リエージュ=ギユマン駅 リエージュ市内の拠点駅。
- リエージュ空港
[編集] 経済
産業としては特に製鉄業が盛ん。
[編集] スポーツ
- サッカークラブ、スタンダール・リエージュの本拠地。
- 1892年から催され、最も歴史ある自転車レースと言われるリエージュ~バストーニュ~リエージュのスタート及びゴール地点
[編集] 出身有名人
- アンドレ=エルネスト=モデスト・グレトリ(作曲家、1741-1813)
- セザール・フランク(作曲家、1822-1890)
- ウジェーヌ・イザイ(ヴァイオリニスト、作曲家、1858-1931)
- ジョルジュ・シムノン(推理作家、1903-1989)
- ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ(映画監督)
- ジャン=ミッシェル・セイブ(卓球選手)
- ジュスティーヌ・エナン(テニス選手)
[編集] 姉妹都市
- リール、フランス
- ナンシー、フランス
- ヴォルゴグラード、ロシア
- アーヘン、ドイツ
- ケルン、ドイツ
- マーストリヒト、オランダ
- ロッテルダム、オランダ
- ポルト、ポルトガル
- サンルイ、セネガル
- クラクフ、ポーランド
- ケベック、カナダ
- トリノ、イタリア
- Esch-sur-Alzette、ルクセンブルグ
- ルブンバシ、コンゴ民主共和国
- ピルゼン、チェコ
[編集] 外部リンク
- Official website of the city of Liège(フランス語・オランダ語・ドイツ語・英語)
- Liégeois (フランス語・オランダ語・ドイツ語・英語)