ラーゲリ
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ラーゲリとは、収容所、キャンプを意味するロシア語の単語(露: Лагерь)であるが、日本では主にソビエト連邦における強制収容所を指す。党により反革命罪等の体制に対する罪を犯したと判断された政治犯や重犯罪を犯した者、また敵国の捕虜等を主に収容し、恐怖や猜疑心、疲労によって支配された過酷な環境下に置くことにより体制への恭順な態度を導き出す手段として使用された。収容者は無償の労働力としても利用された。特にスターリン体制下では家族ごと収容されることが多く、また収容所内での出産率も高かったため、幼児、乳幼児の収容者も多かった。
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[編集] 歴史
ロシアではロマノフ王朝時代から帝政に反抗する者は秘密警察によって逮捕されシベリア送りとなっていた。しかしながら、その刑は軽く、また監視の目も非常に甘いので楽々と脱走できた。2月革命がおきると臨時政府は時代に合わないとしてシベリア流刑を廃止した。しかし10月革命によりボリシェヴィキが権力を掌握すると大量の「反革命分子」「敵階級」を収容するため強制収容所が復活した。
収容所はレーニン、スターリンの時代を通して拡大し、アメリカでも奴隷制が廃止された近代においてソ連は事実上の奴隷制を持つ唯一の国家になった。収容所に収用された人の数は数百万人から数千万人説まであり、全労働力人口の一割以上を占めたともいわれる。特にスターリン時代は、これらの収容者による労働が、ソ連経済全体の少なくとも25%を支えていたといわれる。
金鉱の採掘には、専ら収容者が充てられた。特に金鉱を採掘するために大量の人間が動員された東シベリアのコルイマ収容所は「金ののべ棒一つ得るため人一人が死んだ」と言われるほどの犠牲者を出し、ヒトラーのアウシュヴィッツ収容所と並んで悪名高い。
第二次世界大戦時の日本人捕虜も多くがシベリアなどの収容所に抑留され強制労働に従事させられた(シベリア抑留)。日本人のほか、200万ともそれ以上とも言われるドイツ軍捕虜、枢軸国であったイタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、大戦初期に併合されたバルト三国からも多数の捕虜や政治犯が収容所に送り込まれ、過酷な強制労働に従事させられた。
1953年のスターリンの死の直後からスターリン体制の反省と採算性の問題からラーゲルの縮小は進められることとなる。まず未成年者および高齢者および多数の成人収容者が解放され、1956年のスターリン批判以降は劇的に収容者数を減らすこととなり、収容所の環境改善も進められた。
[編集] 参考文献
- 『収容所群島』(小説)(アレクサンドル・ソルジェニーツィン)
- 『イワン・デニーソヴィチの一日』(小説)(アレクサンドル・ソルジェニーツィン)
- 『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』(ノンフイクション)(辺見じゅん)
- 『グラーグ ソ連集中収容所の歴史』 アン・アプルボーム、川上洸・訳 白水社(ノンフィクション)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Meomorial(ソ連時代の弾圧、収容所の歴史。ロシア語、英語、ドイツ語)