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ライク・ラースロー - Wikipedia

ライク・ラースロー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この項目では、ハンガリー語圏の慣習に従い、名前を姓名順で表記していますが、ヨーロッパ風にラースロー・ライクと表記することもあります。

ライク・ラースローRajk László, 1909年5月8日 - 1949年10月15日)はハンガリー共産党員、政治家、内務大臣。共産党の権力強化に重要な役割を果たしたが、共産党内の権力闘争の他に、国内を基盤にした共産党員ゆえスターリンを背景にしたラーコシに反対したために、結局はラーコシの見せしめ裁判の犠牲者となった。

目次

[編集] 背景

ライク・ラースローは1909年に生まれ、1949年に死去した。共産主義に関わったのは、ハンガリー共産党員になった青年期のことである。後に政治思想ゆえに大学から退学処分を受け、スペイン内戦人民戦線に加わる1936年まで建設作業員として働いていた。スペイン内戦では1941年までフランスで投獄され、その後、同年にハンガリーに帰国し、地下活動中の共産党中央委員になった。

1944年12月、矢十字党Nyilaskeresztes Párt-Hungarista Mozgalom)の特殊部隊に逮捕された。処刑されることになり、当時はドイツ領だったショプロンケーヒダ刑務所に移送されたが、ファシスト党副書記長ライク・エンドレが(ライク・ラースローの兄)とりなして減刑され、5月13日に釈放された。

ライク・ラースローはハンガリーに戻り政党政治に参加し、共産党(MKP)指導部と臨時議会に加わった。1946年3月20日、内務大臣に任命された。ここで共産党の私兵部隊と、国家保安局KGBセクリタテアシュタージのような機関)を組織し、直接指示を下した。「ファシズムと反動に対する闘争」と「プロレタリア権力の防衛」で宗教団体、国民的組織、民主組織、独立組織を(その数は約1500に上った)禁止し解散させ、最初の見せしめの裁判を行った。


1948年8月5日から1949年5月20日まで内務大臣から外務大臣に異動した。ラーコシはライクを自分の権力の脅威になると見ていて、偽りの告発を行うことにし、1949年に逮捕した。ライクは前々から共産党員に人気があったが、間もなくチトーホルティ、そして「帝国主義者」の「飼い犬」との汚名を着せられることになった。

[編集] 裁判

ライク・ラースローはチトーのスパイであり、西側の帝国主義の大使であり、資本主義復活を目論む輩であり、ハンガリーの独立を危うくする輩として起訴された。収監中にライク・ラースローは拷問を受け、告発されていることに対する責任を取れば釈放すると約束された。1949年9月、告発されていた全てを自白した。自白後約束に反して共に起訴された18人に最も重い刑を求めることが決定された。ライク・ラースローはスターリンの反チトーの粛清の始まりの例となることになった。ライク・ラースローは18人と共に死刑判決を受け、裁判は1952年にチェコスロヴァキアでルドルフ・スラーンスキー(Rudolf Slánský)らの粛清裁判まで東欧での連鎖を引き起こすことになるものであった。

[編集] 再葬儀と償い

ラーコシ裁判は、スターリンが反チトー主義へと突き進み始める出発点となった。彼の裁判はまた、ハンガリーにおける全ての政治政党が排除され始める出発点でもあった。しかしこの粛清で国家経済が資本流入の乏しい悲惨な状況に追い込まれることになった。また、非常に多くの知識人が、自分の能力が活かせない単純労働者となった。その結果は不十分なインフラと品質の悪い商品であった。政府は国中に充分過ぎるほどのスパイを放ち、経済を支える製造業には十分に配置しなかった。ラーコシの支配に対する不満が表面化し始め、1956年3月28日に大規模なデモが行われた後、ライクは名誉を回復した。復活演説で(たとえ公表されなかったとしても)その後の粛清の言い訳に使われうことになる。その時人々はラーコシに対してもう信頼は置けないと公言し始めた。ライク・ラースローは他に粛清で命を落とした人々と共に1956年10月6日に再び葬儀が行われた。(この行動はハンガリー動乱の先駈けとなり、動乱は10月23日に始まった。)ライク裁判がここに来て効果を表したのは、1940年代後半から50年代前半の行動によるものでしかない。ラーコシの統治に対する脅威ゆえに今も多くの犠牲者の氏名が分かっていない。

[編集] 参考文献

  • Crampton, R.J. Eastern Europe in the Twentieth Century - And After, 2nd Ed. Routledge Press, 1994.
  • Litvan, Gyorgy The Hungarian Revolution of 1956: Reform, Revolt, and Repression 1953-1963, Longman Publishing Group, 1996.
  • Rajk, Laszlo, Columbia Encyclopedia, 6th Ed. Columbia University Press, 2001. http://www.bartleby.com/65/ra/Rajk-LAS.html (1 Dec. 2005)
  • Stokes, Gale (ed.) From Stalinism to Pluralism: a Documentary History of Eastern Europe since 1945, New York and Oxford University Press, 1991.


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