モロ民族解放戦線
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モロ民族解放戦線(Moro National Liberation Front 略称MNLF)とはイスラム教徒の分離独立を求めるフィリピンの反政府武装勢力。
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[編集] 歴史
[編集] モロ民族解放戦線発足
MNLFは1970年にミスアリらを中心に結成された。当初は90人足らずで弱い組織であったが着々とミンダナオ島やスールー諸島を中心に勢力を拡大し、ゲリラ兵士は最盛期3万人以上の強大な組織となった。
[編集] 和平交渉と独立運動の亀裂
1976年にマルコス政権はMNLFとの間でミンダナオやスールー諸島の14州の自治を約束するトリポリ協定を締結した。
だが、この和平協定への対応を巡って以前から存在した内部対立が激化、1977年にはミスアリ派、サラマト派(後にモロ・イスラム解放戦線へ発展)等諸派に分裂し、ヌル・ミスアリを指導者とするMNLFはより過激な諸派との競合の中でその勢力を次第に衰退させた。
また、トリポリ協定そのものも自治区編入の可否を問う住民投票をMNLFが嫌ったことで事実上破棄され、戦闘が再開。交渉再開には1986年の人民革命とマルコス政権の崩壊、新たに制定されたイスラム教徒の自治を盛り込んだ新憲法に象徴されるコラソン・アキノ政権下の宥和政策を待たねばならなかった。
だが1989年に実施された住民投票の結果、自治を受け入れたのはイスラム教徒が多数派となる4州に留まり(2001年の再投票で1州1市が追加参加)、翌年この4州のみでムスリム・ミンダナオ自治区(ARMM)が発足した。この政府の措置に対し、トリポリ協定に記された完全自治を要求するMNLFはこの結果を拒否して武装闘争継続を宣言する。
[編集] 和平成立
条件付和平交渉を求めるMNLFに対しフィリピン政府はこれを拒んで掃討作戦強化で応じたが、フィリピン経済の発展のためには国内情勢の安定化は急務であり、やがてイスラム諸国会議機構の仲介でラモス政権下の1993年に暫定的な停戦合意が成立し、自治交渉が再開された。そして、3年間に及ぶ和平交渉の末、自治政府樹立を目指しミンダナオ南部などの14州に暫定的な行政機関南フィリピン和平開発評議会(SPCPD)が設立やMNLF兵士の国軍統合、ミスアリをARMM知事選の与党候補とすることなどが合意され、政府とMNLFの和平交渉はここに合意するに至った。
だが、SPCPDにおいてもARMMに参加しない残りの州の無条件での自治権が担保されたわけではなく(再投票実施で合意)、結果的にこれを受け入れたヌル・ミスアリ指導部に反発する多数の兵士がMILFやアブ・サヤフへ合流する事態を招いた。
この為、MNLFの軍事力は著しく衰退した。
[編集] ミスアリの失脚
軍事的には弱体化したMNLFだったが、ARMMにおける投資の分配を独占するミスアリの影響力そのものは未だ強大であった。このため中央に敵対的な地方支配者の存在を除きたいマニラのアロヨ政権は、2001年のARMM知事選においてヌル・ミスアリと対立するMNLF副議長パロウク・フシンを支援した。
窮地に立たされたミスアリ派は2006年11月、ホロ島の国軍基地を襲撃して武装蜂起に打って出たが程なく鎮圧。ミスアリは政府に逮捕され、親マニラのフシン新知事体制が成立した。
だがMNLF内部には依然としてミスアリを支持する集団も勢力を保っており、事実上の分裂状態が続いている。