モハメド・カロン
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モハメド・カロン | ||
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名前 | ||
愛称 | ワンダーボーイ、スモール・カロン | |
カタカナ | モハメド・カロン | |
ラテン文字 | Mohamed Kallon | |
基本情報 | ||
国籍 | シエラレオネ | |
生年月日 | 1979年10月6日(28歳) | |
出身地 | ケネマ | |
身長 | 179cm | |
体重 | 71kg | |
選手情報 | ||
在籍チーム | AEKアテネ | |
ポジション | FW、MF | |
利き足 | 右足
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代表歴 | ||
出場 | 26 | |
得点 | 9 | |
モハメド・カロン(Mohammed Kallon、1979年10月6日 - )は、シエラレオネ・ケネマ出身の同国代表、AEKアテネ所属のサッカー選手(FW)。
目次 |
[編集] 略歴
早くからその才能を嘱望され、僅か15歳でシエラレオネ代表に選出された同国出身のサッカー選手としては飛び抜けたキャリアの持ち主。22歳頃からは代表のキャプテンも務めている。
地元クラブでプレーした後、1995年にスイスの小クラブ・FCルガーノでプロとしてのキャリアをスタート。その後イタリア・セリエAのクラブチームを転々とする。シエラレオネ・ユース代表などでの活躍により、イタリアに渡る前から既にその才能を注目されていたが、その名を世に知らしめたのは2001年にインテル・ミラノへ移籍してからである。エース、ロナウドが重傷で長期離脱していた際、ニコラ・ヴェントラとともに彼のバックアップを十分にこなした。
しかし選手層の厚さを誇るインテルで完全にレギュラーを奪うまでには至らず、2004-2005シーズンからは出場機会を求めてフランスの強豪・ASモナコに移籍。ストライカーとして起用された彼は労を惜しむことのない運動量と鋭いスピードでリーグ戦11得点を奪う活躍を見せたが、フランスサッカーのスタイルは自らに合わないと直訴し移籍を志願。2005-2006シーズンからはサウジアラビアの強豪、アル・イテハドにレンタル移籍する。このクラブではアジア・チャンピオンズリーグを制し、トヨタカップと統合されたFIFA Club World Championship TOYOTA CUPにも出場。激闘の末、四位に輝いた。
レンタル期間の切れた2006-2007シーズンからはモナコに復帰するも、一部選手と不仲であると噂されたり、「フランスでプレーする事にモチベーションを保てない」と述べるなどしたためか起用される事が少なく、かつてほどの運動量の提供も見られなかった。シーズン終了後にモナコを退団して以来無所属であったが、2008年1月にAEKアテネと6ヶ月の契約を結んだ。一時無所属であったにもかかわらず、AEKでは攻撃の核として活躍している模様。
ちなみに、シエラレオネ代表は2006年開催のアフリカネイションズカップ予選に参加出来なかった(ワールドカップ・アフリカ予選がネイションズカップ予選出場権争いも兼ね、シエラレオネ代表は予備予選で敗退したため)。2008年開催のネイションズカップ参加に向けて、カロンの復調と飛躍が期待されるところである。
[編集] エピソード
- 故郷シエラレオネが内戦状態で家族の消息が分からなくなった際、神経性の病気を発病して一時コンディションを落としたが家族の安否が確認されると以前のポテンシャルを取り戻した。また、内戦や貧困に苦しむ母国にFCカロンというサッカークラブを設立、社会貢献もしている。
- どういうわけか、インテル時代は背番号3をつけていた。また、アル・イテハド時代も背番号3であった。
[編集] プレースタイル
センターフォワードやセカンドトップの位置に置かれてもそれを苦もなくこなす戦術理解度の高さと、爆発的なスピードを武器にルーズボールへ食らい付いて得点を奪う嗅覚の鋭さ、そして前線から惜しみなくプレッシングを掛けられる運動量と勤勉さにも注目が集まる選手。右サイドやトップ下でチャンスメイクをこなすMFとしてもプレー可能で、スピードを封じられても安定した足下の技術でボールを失うことが少ないが、ポストワーカーにはそれほど向いていない。
[編集] 選手経歴
- FCルガーノ( スイス) 1995年 - 1997年
- ボローニャ( イタリア) 1997年
- ジェノア( イタリア) 1997年 - 1998年
- カリアリ( イタリア) 1998年 - 1999年
- インテル( イタリア) 1999年 - 2004年
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