マーゴット・フォンテーン
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マーゴ・フォンテーン (Dame Margot Fonteyn de Arias DBE, 1919年-1991年)は、イギリスのバレエダンサー。本名はマーガレット“ペギー”・ホッカム。芸名の由来は母方の祖父の苗字Fontesのもじりである。
アイルランド系である母親がブラジル人とのハーフだったので、アングロ・サクソン系らしからぬ黒髪黒目のエキゾチックな容貌が特徴的だった。幼少時からバレエを習い始め、父親の赴任先の上海でもロシア人舞踊師から手ほどきを受けていた。帰国後はサドラーズ・ウェルズ・バレエ学校で学ぶ。入学当初から学校長兼ヴィック・ウェルズ・バレエ(後のロイヤル・バレエ団)芸術監督のニネット・ド・ヴァロアに見出され、徹底的に鍛えなおされたという。
1934年、舞台デビューした。翌年、バレエ・リュス出身のプリマ、アリシア・マルコワ退団のあとをうけてプリマ・バレリーナとなった。1946年、全米ツアー公演で踊った「眠れる森の美女」オーロラ姫が当たり役となり、注目を浴びる。その後もロイヤル・バレエで活躍する他、54年から王立舞踏学院の院長を務めた。56年にデイムの称号を与えられた。代表作は「ジゼル」「眠れる森の美女」「白鳥の湖」など。映画「小さなバレリーナ」(1947年)にも出演した。
1963年、引退がささやかれていた時期にソ連から亡命したルドルフ・ヌレエフと、「ジゼル」で共演する。これが評判となり、以降、ヌレエフとの間に10年以上に及ぶパートナーシップで再びバレエ界に名をとどろかした。特に2人の「眠れる森の美女」、「ロミオとジュリエット」は有名で後者は映像化された。1955年にパナマの外交官ロベルト・デ・アリアスと結婚した。その後夫アリアスはパナマで政界進出を目論むが、1967年遊説中に狙撃され、下半身不随となったが、フォンテインは夫を最後まで看取った。
1991年、ガンにより、パナマで死去。