マーガレット・スクリブン
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マーガレット・スクリブン(Margaret Scriven, 1912年8月17日 - 2001年1月25日)は、イングランド・ヨークシャー、リーズ出身の女子テニス選手。1930年代に活躍し、1933年と1934年の全仏選手権(現在の全仏オープン)で女子シングルス2連覇を達成した選手である。全仏選手権では1933年の混合ダブルスと1935年の女子ダブルスでも優勝し、総計4つのタイトルを獲得した。左利きの選手で、全仏オープン女子シングルスの歴史を通じて最初の左利き優勝者になった。マーガレットは“Peggy”(ペギー)という愛称で呼ばれた。フルネームは Margaret Croft Scriven Vivian (マーガレット・クロフト・スクリブン・ビビアン)という。
スクリブンのテニスは、他のトップ選手に比べると“ぎごちなさ”を感じさせたというが、忍耐強いプレースタイルを持ち味とした。彼女との対戦はスタミナ勝負を強いられ、とりわけ左打ちのフォアハンド・ストロークには、対戦相手にとって“過酷な消耗戦”の印象があったという。
スクリブンは7歳からテニスを始めたが、1929年に17歳でイギリス国内の女子ジュニア・チャンピオンになるまでは、レッスンを受けずに独学でテニスに親しんだ。2年後、1931年のウィンブルドン選手権でシモーヌ・マシュー(フランス)との準々決勝に進出し、初めてのセンター・コートでマシューに 6-1, 2-6, 5-7 の試合を挑んだ。1933年の全仏選手権で、スクリブンは女子シングルスと混合ダブルスの2部門で初優勝を飾る。シングルスではノーシードから勝ち上がり、決勝でマシューを 6-2, 4-6, 6-4 で破って優勝した。混合ダブルスでは、スクリブンのパートナーはジャック・クロフォード(オーストラリア)であった。全仏2部門制覇の後、ウィンブルドン選手権では2年ぶり2度目の準々決勝でヒルデ・クラーヴィンケルに敗退した。1933年には、キャリアで唯一の全米選手権出場もある。
1934年の全仏選手権でスクリブンは第2シードに選ばれ、決勝で第1シードのヘレン・ジェイコブス(アメリカ)を 7-5, 4-6, 6-1 で破って2連覇を達成した。同年のウィンブルドンでは、3度目の準々決勝でオーストラリアのジョーン・ハーティガンに敗れている。1935年全仏選手権で、スクリブンは準決勝でマシューに 6-8, 1-6 で敗れて女子シングルス3連覇を逃したが、同じイギリスのケイ・スタマーズと組んだ女子ダブルスで初優勝した。スクリブンとスタマーズは、2人とも左利き選手どうしのペアを組んだことになる。1937年の準々決勝でリリ・デ・アルバレス(スペイン)に敗れた試合を最後に、マーガレット・スクリブンは全仏選手権から撤退した。
全仏選手権で4つのタイトルを獲得したスクリブンだが、地元大会のウィンブルドン選手権では4度のベスト8止まりで終わってしまう。最後のチャンスでは、1937年の準々決勝でポーランドのヤドヴィガ・イェンジェヨフスカに 1-6, 2-6 のストレートで完敗した。彼女の最後のウィンブルドン出場は、第2次世界大戦開戦直前の1939年であり、この大会の4回戦でもイェンジェヨフスカに 3-6, 2-6 で敗退している。選手経歴の間に、スクリブンはフランク・ハーベイ・ビビアンと結婚した。
マーガレット・スクリブンは1939年ウィンブルドン選手権の4回戦敗退を最後に選手生活を終え、終戦後の女子テニス界には復帰しなかった。その後は夫とともに静かな生活を送り、2001年1月25日にイングランド・サリーのヘーズルミアにて88歳の長寿を全うした。
[編集] 全仏選手権の成績
- 女子シングルス:2勝(1933年、1934年) [大会2連覇]
- 女子ダブルス:1勝(1935年) [パートナー:ケイ・スタマーズ]
- 混合ダブルス:1勝(1933年) [パートナー:ジャック・クロフォード]
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- モーリス・ブレディ編『ローンテニス百科事典』 The Encyclopedia of Lawn Tennis (英語、1958年刊、ロバート・ヘール社)121ページ 古い本だが、比較的新しい文献よりも詳細な説明がなされている。
- バド・コリンズ著『テニスのすべて-究極のテニス百科事典』(英語、2003年刊、ISBN 0973144343、スポーツ・クラシック・ブックス) 彼女の没年月日は、このコリンズ百科事典の最新版で確認した。
- マーティン・ヘッジズ著『コンサイス・テニス辞書』(英語、1978年刊、ISBN 0831717653、メイフラワー・ブックス)