マルクス・ユニウス・ブルートゥス
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マルクス・ユニウス・ブルートゥス(Marcus Junius Brutus, 紀元前85年 - 紀元前42年)は、共和政ローマ末期の政治家。ガイウス・ユリウス・カエサル暗殺の首謀者の1人。
[編集] 生涯
同名の父親と母セルウィリアとの間に生まれる。母親はガイウス・ユリウス・カエサルの愛人としても有名で、様々な説ではカエサルが本当の父親ではないかと言われている。しかしながらブルートゥスが生まれた頃を計算するとカエサルは15歳という事になるので、その可能性は少ないと言う意見が主流である。早くに父を失い、叔父小カトーの影響を受けて育ち、政治の舞台にはキプロス島の統治のため彼の助手として登場する。この時に彼は高利貸しで大いに裕福になったと言われている(その暴利ぶりはキケロを呆れ嘆かせたという)。そしてローマに戻りクラウディア・プルクラと結婚する。その後元老院議員となり、共和政保守派の仲間入りをして第1回三頭政治に対抗する。スッラが元老院を牛耳っていた時代に父親がポンペイウスに殺されたという経緯から当時のブルートゥスはポンペイウスに憎悪を抱いていた。
しかしながら紀元前49年に始まる内乱ではポンペイウス側につく。そしてパルサロスの戦いにもポンペウスの側でカエサルと戦う。プルタークによれば、この戦いが始まる前にカエサルは部下にブルートゥスに一切の危害を加えてはならぬと厳命したと言う。戦後、赦免されてローマ政界に復帰、カエサルが小カトーを追討のためアフリカに出征するとガリア総督を任される。紀元前45年カエサルにプラエトル職を推薦され、同年妻と離婚、先年に自死した小カトーの娘ポルキア・カトニスと結婚する。
日増しに強くなっていくカエサルの権力の前に元老院議員の誰もが、親しい友人達でさえ、カエサルを危険視するようになってきた。その頃ブルートゥスは他の元老院議員からカエサルへの陰謀計画に加担するように頼まれていた。恐らく彼は自分が亡きカトーの甥であり、義理の息子という経緯からカエサルの暗殺計画に加担するようになった。それは、カエサルが終身の独裁官(ディクタトル)となった頃だといわれる。
暗殺後、ブルートゥスは周囲から妥協するように持ちかけられていた。もし、カエサルが独裁者と認定されれば、彼の行った様々な人事が白紙に戻される。また彼もその一人だった。そうなれば彼を含む多くの者が元老院議員ではなくなり、再び選ばれなければならぬ。彼は妥協を受け入れ、ユリウス・カエサルは独裁者ではないと認めた。そして妥協案に従い、ローマを去る。そしてクレタ島に移った。
紀元前42年、オクタウィアヌスがコンスル職に就任、そしてすぐに養父カエサルを暗殺した者を殺人者と断定するように働きかけた。この事はカエサルの殺人者という汚点をブルートゥスに背負わせる事になり、またオクタウィアヌスのこの行動はキケロを憤慨させた。
暗殺後は東方属州に退いてカエサル派に対抗したが、フィリッピの戦いに敗れ、自決。遺体は火葬にされ、母セルウィリアのもとに送られた。そしてブルートゥスの死後、妻ポルキアは自決した。
[編集] 文学としてのブルートゥス
- ウィリアム・シェイクスピアの作品『ジュリアス・シーザー』のカエサル暗殺時の名台詞「ブルータス、お前もか」のブルータスは彼の事を指すと言われている。出典であるスエトニウス『ローマ皇帝伝』(「カエサル」(Divus Iulius)、82)では「我が子よ、お前もか」となっている。
- ただしカエサルの叫んだ「ブルータス」はマルクス・ブルートゥスではなく、彼の従兄弟でカエサルの腹心であったデキムス・ユニウス・ブルートゥスを指しているという異説も根強い。カエサルはデキムス・ユニウス・ブルートゥスを非常に信頼しており、遺言状で2番目の相続人に指定するほどであり、彼が暗殺に加わったのはカエサルにとっては予想外の行為であったからである。ローマ人の物語の著者塩野七生もこの説を取る。