マリ帝国
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マリ帝国(まりていこく、1240年 - 1645年)は、現在のマリ共和国周辺の領域で栄えたマンディンカ族の国家。歴代の王は早くからイスラム教を受け入れていたとされる。首都はニジェール川上流部のニアニという説がある。
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[編集] 歴史
帝国の創始者で、伝説的英雄スンジャータは、マディンゴ族系のマリンケ族を統一することに成功する。その後、サハラ砂漠を越えて北アフリカと岩塩・布地・奴隷、そして金の交易を行い、14世紀には西は大西洋岸まで、東はトンブクトゥ・ガオまで、南はブレ・バンブクにある金鉱に達し最大の繁栄を極めた。
14世紀には王のマンサ・ムーサ(「王の中の王」の意、在位:1312年 - 1337年)と、マンサ・スレイマン(在位:1341年 - 1360年)のもとで帝国は最盛期を迎えた。当時マリを訪れたアラビア人の旅行家イブン・バットゥータは、「彼らの国はまったく安全である」ことに驚き、住民たちはもてなしが良く、正義感が強いことを称賛している。 なお、マンサ・ムーサは、1324年にムスリム(イスラム教徒)として数千人もの従者を引き連れてメッカへ巡礼し(皇帝マンサ・ムーサのメッカ巡礼)、その道中のあちこちで大量の金の贈り物をしたために、カイロの金の相場が下落したという逸話がある。王はマリに戻ると、イスラム教とイスラム文化を進んで住民に広めている。
しかし、14世紀の後半からは聡明でない王が続き、そのため従属していた国々が相次いで離反した。また同じ頃、南方のモシ族・北方のトゥアレグ族が攻めてきたために大損害を受け、帝国は衰退していった。その後もソンガイ帝国庇護のもと地方小国家として続いていたが、1645年に滅亡した。
[編集] 制度
帝国の経済基盤は、ニジェール川流域の肥沃な土地から取れる粟・モロコシ・米と、周辺のサバンナでの牧畜を中心とした農牧国家だったとされる一方で、交易地を多く持っていたため交易への課税にも拠っていた。とはいえ、諸王の権力と富を最も増大させたのは南部の金床からとれる金交易によるものであった。
帝国というが、中央集権体制の国家ではなく、マリを中心とする緩やかな連合国家であったとされる。
[編集] マリ帝国のマンサ(王)の一覧
まだ知られてない王も多くいて、現在発掘が進められている。
- Sundiata Keita (1240-1255)
- Wali Keita (1255-1270)
- Ouati Keita (1270-1274)
- Khalifa Keita (1274-1275)
- Abu Bakr (1275-1285)
- Sakura (1285-1300)
- Gao (1300-1305)
- Mohammed ibn Gao (1305-1310)
- Abubakari II (1310-1312)
- Kankan Musa I (1312-1337)
- Maghan (1337-1341)
- Suleyman (1341-1360)
- Kassa (1360)
- Mari Diata II (1360-1374)
- Musa II (1374-1387)
- Magha II (1387-1389)
- Sandaki (1389-1390)
- Mahmud (1390-1400)
- Unknown Mansas (1400-1441)
[編集] 参考文献
- アンソニー・ブリアリー著、古賀浩訳 『古代アフリカ(古代遺跡シリーズ)』 ニュートンプレス、1997年。ISBN 431551358。
- 世界史小辞典編纂委員会編 『世界史小辞典(改訂新版)』 山川出版社、2004年。ISBN 463462110。