ペルセウス (マケドニア王)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ペルセウス(希:Περσεύς、英:Perseus of Macedon)はアンティゴノス朝マケドニア最後の王(在位:紀元前179年 - 紀元前148年)。印欧語では「マケドニアのペルセウス」という言い方で呼ばれる事もある。新興目覚しかった共和政ローマと対立、第3次マケドニア戦争を勃発させ敗北、廃位となり、ここにアンティゴノス朝は滅亡した。
紀元前179年、フィリッポス5世が没すると王位に就く。前年には王族内でのローマの擁護者であった弟デメトリオスが処刑されている。ローマの外交を担っていたデメトリオスの活躍をペルセウスは嫉妬してペルセウスは父フィリッポスをけしかけてデメトリオスを王位簒奪者として断罪、処刑させたと言う。彼の処刑によりローマとの関係が冷却した。
ペルセウスが王位に就くとローマとの関係の見直しがされたが、これはローマとの関係に問題を起こすようになった。まず彼はデルフィを訪問する際に軍隊を率いて行う、ローマの元老院から送られてくる外交担当者を蔑ろにするなどローマにマケドニアとの関係の再考を促す結果となった。
すぐにローマとペルセウスとの間に第3次マケドニア戦争が勃発、ペルセウスはある程度の成功を収めるものの、状況はマケドニアに不利となり、紀元前168年にピュドナの戦いで致命的な敗北を喫するとローマの司令官ルキウス・アエミリウス・パウッルスの前に降伏した。
降伏後は捕虜として獄につながれ廃位、マケドニアは4つの共和国に分割され、紀元前168年アンティゴノス朝マケドニア王国は滅亡した。そして第四次マケドニア戦争でローマに反乱を起こした後、マケドニアはローマに吸収され(マケドニア属州)、紀元前146年には完全にローマの属州となった。
2005年にイタリアのラクイラ県マリャーノ・デ・マルシ近郊のヴァレリア街道沿いにペルセウスの墓石が発見され、イタリア政府文化庁およびマケドニア共和国政府の調査を受け注目を浴びた。
|
|
|