フローラ・ハイマン
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オリンピック | ||
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女子 バレーボール | ||
銀 | ロサンゼルス 1984 | 団体 |
フローラ・ハイマン(Flora Jean Hyman, 1954年7月31日 - 1986年1月24日)は、アメリカ合衆国のバレーボール選手である。カリフォルニア州イングルウッド(Inglewood)出身。8人兄弟の2人目として生まれる。13歳のときに1m83cm、大人になった段階で1m96cmの身長となった。
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[編集] 来歴
イングルウッドのハイスクールを卒業後、ヒューストン大学に進学したが、バレーボールのキャリアを優先するために卒業はしなかった。彼女はその点についてバレーボールからの引退後、60歳になってからでも大学に行くことができると発言している。
1974年に米国女子代表入りしたが、1980年のモスクワオリンピックには、アメリカがボイコットを決定したため出場を逃した。1981年のバレーボールワールドカップ、1982年のバレーボール世界選手権に出場、銅メダルを獲得した。彼女のスパイクは時速180kmであったと測定されている。1984年ロサンゼルスオリンピックでは最も年長でかつ長身の選手としてアメリカ代表を牽引し決勝で中国[1]に敗れたものの銀メダルを獲得した。
1982年11月、ダイエーにバレー部が誕生したときに来日。ダイエーのアタッカーとして活躍した。1986年1月22日の日本リーグの日立対ダイエー戦で試合中に意識を失い、搬送先の病院で息を引き取った。死因は当初心臓発作と見られていたが、その後の検査でマルファン症候群による大動脈解離だったと考えられている。[2]
[編集] エピソード
ハイマンがこの世を去った1月24日にダイエーによって日立の連勝記録は88でストップされた。ハイマンの死はアメリカでも大きな反響を呼んだ。1986年1月31日に行われた葬儀は全米に放送された。ダイエー・オレンジアタッカーズおよびアメリカナショナルチームは彼女の背番号7を永久欠番にすることを決めた。ハイマンの死後、日本バレーボール協会の健康対策委員会が設置され、協会登録の全選手に年2回の心臓疾患を中心とした定期診断を義務付けることを決定した。
彼女の功績を称え1987年からアメリカ国内女子スポーツ選手を対象としたフローラ・ハイマン賞も設立された。
[編集] 球歴
- 主な国際大会出場歴
- 表彰
- オールアメリカン3度
- 1981年のワールドカップのベスト6、ベストヒッター
- スポーツ・イラストレイテッドの選ぶ20世紀の女性運動選手69位にランクイン。[3]
[編集] 脚注
- ^ トーナメントで対戦しその際はアメリカが勝利していた。
- ^ 先天性疾患の遺伝子特定 マルファン症候群
- ^ 1999年11月29日号