フランソワ・オランド
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フランソワ・オランド(François Hollande、1954年8月12日 - ) は、フランスの政治家。フランス社会党第一書記であり、コレーズ県チュールの市長。
[編集] 略歴
ルーアン出身(セーヌ=マリティーム県)。耳鼻咽喉科の医者、ジョルジュ・オランドを父に、ソーシャルワーカーのニコール・トリベールを母に生まれる。パートナーである政治家セゴレーヌ・ロワイヤルとの間に4人の子供がいる。
パリ政治学院(通称:シアンス・ポ)で法学士の学位を取得、同校でフランス全学連の委員長を務める。1974年、パリのHEC経営大学院(HEC)に入学、フランソワ・ミッテラン支援委員会の委員長を務める。1980年、国立行政学院(ENA)を11番目の成績で卒業、会計監査院の検査官となる。この1年前に彼は社会党に入党している。ジャック・アタリの後押しにより、フランソワ・ミッテランの参事官となる。
1981年、ジャック・シラクの対立候補として国民議会選挙に立候補するが、第一回選挙で敗退。RPR党首、シラクが50%以上の得票率であったのに対し、彼の得票率は26%でしかなかった。
1981年、フランソワ・ミッテランの勝利によって、彼は大統領官邸での任務(経済問題)を担当することになる。1983年、ピエール・モロワ内閣で次々に現れた二人のスポークスマン、マックス・ガロとロラン・デュマの官房長となる。同年、市町村議会選挙に立候補するが敗れ、ジャック・シラクの選挙区である(コレーズ県)ユッセルの市町村参事会員となる。
1984年、派閥争いに嫌気がさし、彼は数人の友人、特にジャン・イヴ=ル・ドリアン、ジャン・ピエール=ミニャール、ジャン・ミシェル=ガイヤールなどと共に(フランス社会党の)超派閥集団を結成した。
1988年、フランソワ・ミッテランの再選の後、チュール(コレーズ県第一選挙区)で、53%の得票数を得て市会議員に当選。同年から1991年まで政治学院で第3学年の学生に経済学を教える。1990年、彼はレンヌの党大会でモロワ-メルマッズ-ジョスパンの動議を支持。
1993年、議員の任期を終了すると、1997年までジャック・ドゥロールの政治集団(クラブ・テモワン)を主催する。現在、彼は名誉会長を務める。
会計監査院行政官としてのフランソワ・オランドは、弁護士職と同等の資格を持っており、従って暫くの間、友人のジャン・ピエール=ミニャールの事務所で働く。
1994年、彼は社会党全国書記、経済問題担当となる。ジャック・ドゥロールが立候補を断念した後、リオネル・ジョスパンに接近する。ジョスパンは自らの大統領選キャンペーンの、また1995年10月には社会党のスポークスマンに彼を起用した。多元的左翼勝利の後、1997年、フランソワ・オランドは再び代議士(得票率54%以上を以って)となり、リオネル・ジョスパンも首相に指名された。ジョスパンは自らの後継者として社会党第一書記の地位を彼に託した。1999年、オランドは欧州議会議員に選出され、また、社会主義者インターの副議長に選出されている。
[編集] 暴露本「運命の女」
2007年に事実上の妻であるセゴレーヌ・ロワイヤルが大統領選に敗北してまもなくフランス高級紙「ル・モンド」の記者2人による著作「運命の女」が出版された。これは、それまでオシドリ夫婦と見られたオランドとロワイヤルが10年以上前から「仮面夫婦」の状態であることを暴露したものである。同書の中には1995年にロワイヤルが大統領選出馬を考えてたが、オランドが反対したことや、オランドの浮気などの様々な面で対立や軋轢が両者の間にあったことを綿密な調査のもと書いている。オランド、ロワイヤル両氏はこの本の内容を否定したが、フランス国内では15万部が売れるベストセラーになった。
なお2007年6月に両者は別居。関係を解消している。
[編集] 外部リンク
- Le site officiel du parti socialiste (フランス語)
- Francois Hollande 自身のブログ (フランス語)