ハムダーン朝
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ハムダーン朝(アラビア語 : الحمدانيون al-Hamdānīyūn)は、ジャズィーラ地方(現在のイラク北部)からシリア北部を支配したイスラム王朝(890年 - 1004年)。
ハムダーン朝はジャズィーラ地方から東南アナトリアにかけてのユーフラテス川上流域に居住するアラブ人のタグリブ部族の出自である。9世紀にアッバース朝の力が衰えるとこの地域ではタグリブ族を含むアラブ遊牧民(ベドウィン)の活動が盛んになり、そのうちのひとりであるタグリブ族のハムダーン・イブン=ハムドゥーンは890年にアナトリア東南部の都市マルディン(現トルコ領)の総督に任じられた。
ハムダーンの子らもアッバース朝に仕えてアラブ遊牧民軍の有力者として活躍し、906年には兄弟の一人アブドゥッラー・イブン=ハムダーン(アブールハイジャー)がモースル(現イラク北部)の総督に任じられた。929年にアブドゥッラーが亡くなると子のハサンがモースル総督を引き継ぎ、アッバース朝と交渉して貢納を行うのと引き換えにカリフからジャズィーラ地方の支配権を承認された。
当時、アッバース朝のカリフは首都バグダードを中心とする本拠地のイラク中部においても実権を将軍の筆頭である大アミールに奪われていたが、大アミールの地位を巡って将軍間の抗争が激化していた。バグダードに近いモースルを支配するハムダーン朝もこれに介入するようになり、942年にハムダーン朝はイラク中部に進軍して大アミールのイブン=ラーイクを殺害した。バグダードに入城したハサンはナースィルッダウラ(「国家の守護者」)の称号(ラカブ)を与えられ、大アミールに就任してアッバース朝の政権を奪取した。しかし直後の945年には東のファールス地方(イラン)を支配するブワイフ朝がイラクに入ってアッバース朝の保護権を奪った。これ以降、ハムダーン朝とブワイフ朝はバグダードの支配権とカリフの庇護権をめぐって激しく争ったが、ハムダーン朝はブワイフ朝に圧迫されて勢力を失っていった。
一方、942年のバグダード侵攻時にハサンに協力した弟のアリーはサイフッダウラ(「国家の剣」)の称号を与えられていたが、944年にシリア地方に進軍してアレッポを占拠、兄の宗主権下にアレッポを支配するハムダーン朝の地方政権を興した。彼はシリア地方を支配していたエジプトのイフシード朝と協定を結んでシリア地方を分割し、現在のシリア北部からトルコ東南部、イラク北西部に至る地域を占拠した。しかし同じ頃、勢力を拡大していたマケドニア朝東ローマ帝国の東アナトリア・北シリアへの攻勢が激化し、キリキア方面の北部領土を奪われた。しかし、サイフッダウラは東ローマ帝国の大軍に対してジハードを掲げて果敢に抵抗したため、アラブ戦士の鑑として名を残した。また文芸の保護者としても知られ、アレッポの宮廷には詩人ムタナッビーをはじめ多くのアラブ人の文人が集められ、アラブ文学が栄えた。
967年にナースィルッダウラ、サイフッダウラが相次いで亡くなるとハムダーン朝の両政権は力を失い、アレッポ政権はアレッポのほかホムスをわずかに領有するのみとなり、イフシード朝にかわってエジプト・シリアの支配者となったファーティマ朝の庇護下に入った。979年にはモースル政権がブワイフ朝に大敗を喫し、ブワイフ朝に屈服した。990年、モースル政権はウカイル朝にモースルを奪われ、北イラクから東アナトリアにかけての領土はアラブ人のウカイル朝とクルド人のマルワーン朝によって分割された。アレッポの政権はその後も命脈を保ったが、1004年に王家が断絶し、ファーティマ朝に併合された。