ドイツ国会議事堂放火事件
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ドイツ国会議事堂放火事件(ドイツこっかいぎじどうほうかじけん)とは、1933年2月27日夜に国会議事堂が炎上した事件を指す。
[編集] 概要
1933年1月30日、ナチ党が政権を獲得し、一党独裁を目指して徐々に他党弾圧に転じている最中、1933年2月27日の夜、午後9時14分に消防隊は、国会議事堂が燃えているという通報を受けた。火の手は数箇所から挙がったと見られ、消防隊が到着する前に大きな爆発があり、建物は炎に包まれた。
現場を捜索したところ、建物の陰でちぢこまっていた半裸の男マリヌス・ファン・デア・ルッベを発見した。アドルフ・ヒトラーとヘルマン・ゲーリングは、すぐに現場に到着した。オランダ人の共産党員であったルッベを見せられると、ゲーリングはただちに火災は共産党員の仕業と断定し、ヒトラーは非常事態を宣言し、大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクに緊急大統領令を発布させた。緊急大統領令により1919年に成立したヴァイマル憲法によって獲得された基本的人権や労働者の権利は、そのほとんどが停止された。共産党の指導者たちは逮捕された。
警察はルッベが、国際資本主義に対する抗議として火をつけたと供述したと発表した。ルッベは拷問を受け、そのように告白させられていた。
共産党の指導者たちが投獄され、外部との接触を禁じられたこともあり、3月5日の国政選挙で共産党は後退した。一方ナチスも過半数を取ることはできなかった。
1933年3月24日、全焼した国会議事堂に代えて臨時国会議事堂となったクロールオペラ劇場で開かれた国会でヒトラーは当選した共産党員や社会民主党員が議場に入ることをナチス突撃隊によって妨害させ、少数政党に賛成を強要し、かつ共産党員の当選を無効にすることで、3分の2の賛成を確保し、全権委任法を成立させた。この法律は国会審議・議決なしに、大統領の副署なしに広範な範囲の法会を制定する権利をヒトラー政権に委譲するものであった。
ルッベは裁判で有罪とされ、死刑を宣告された。1934年7月10日、25歳の誕生日の3日前にルッベの刑は執行された。一方他の共産党員たちに対しては、最高裁判所は全員を無罪とした。
これに激怒したヒトラーは、国家への反逆罪を裁く人民法廷(de)を新設させた。人民法廷は後に裁判官ローラント・フライスラー (Roland Freisler) によって、数多くの反ナチ活動家に死刑を宣告したことで悪名高い。
精神を病んでいたとも推測されるルッベは、明白な証拠はないが、実際になんらかの形で放火に関わったと考えられている。しかし被害の大きさからいっても、ルッベの単独犯行かどうかについては疑問が残る。火の回りの速さや、貧乏で冴えない人だというルッベの人物評価、ナチス幹部の謎めいたコメント、そして事件後のヒトラーやゲーリングによる用意周到な行動を考えて、一党独裁を目指す彼らによって仕組まれた政治的陰謀だとの説がある。後のニュルンベルク裁判で、フランツ・ハルダー将軍の証言によると、ゲーリングが周囲に「国会に火を付けたのは俺だ」と語っていたと述べたことからナチス犯人説が有力とされた。しかし、事件当日、国会議事堂炎上を聞いたヒトラーやゲッベルスが動揺していたとの証言もあり、真相は不明(歴史家のジョン・トーランドは自著の中でナチス犯人説を明確に否定している)。
一方、焼け落ちた国会議事堂は再建されることもなく、第二次世界大戦中のベルリンの戦いではソ連軍の攻撃目標となり、更に破壊が進んだ。戦後は連合軍の占領する西ベルリンに位置したため、西ドイツは国会議事堂としては使わなかった。建物が国会議事堂としての役割を再び果たすようになるのは、ドイツ再統一によってベルリンが再びドイツの首都となってからである。
[編集] 文献
- 四宮恭二(著)、『ナチス』、政経書院、1934年
- 檜山良昭(著)、『ヒトラーの陰謀;ドイツ国会放火事件』、講談社、1980年
- 四宮恭二(著)、『ヒトラー・1932-1934』、全2巻、日本放送出版協会、1981年
- 四宮恭二(著)、『国会炎上;1939年ドイツ現代史の謎』、日本放送出版協会、1984年、ISBN 4-14-008399-9
- ジョン・トーランド(著)、『アドルフ・ヒトラー2 仮面の戦争』、集英社文庫