トロイゼーン
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トロイゼーン(トロイゼン)(Troezen, ギリシア語:Τροιζήν)は、ペロポネソス半島北東部にある、アッティカ地方(ペリフェリエス)の小さな町トロイジナ(Troizina, ギリシア語:Τροιζήνα, またはトリジナ Trizina)の古称。アテネの南西、メサナ(en:Methana)の少し南にある。人口は自治体としては6,507人、町としては671人(2001年現在)。自治体所在地は人口2,592人のGalatás(ギリシア語:Γαλατάς)で、他に、Kalloní (人口751人)、Troizína、Taktikoúpoli(391人)、Karatzás(350人)、Dryópi(318人)、Ágios Geórgios(284人)、Agía Eléni(227人)といった町や村、さらに多数の小さな居住地がある。
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[編集] 神話の中のトロイゼン
ギリシア神話によると、トロイゼーンの王女アイトラー(en:Aethra (Greek mythology)、アイトレとも)がアテナイ王アイゲウスと海神ポセイドーンと一緒に眠っていたその夜、後のギリシアの英雄テセウスを孕んだ。アイゲウスはアテナイに戻る前、巨岩の下に自分のサンダルと剣を残し、テセウスが岩を動かせることができたら、サンダルと剣を持って父のいるアテナイに来るよう言い残した[1]。テセウスは青年になった時、その岩を見事に動かすことができた[2]。
さらにトロイゼーンは、エウリピデスの悲劇『ヒッポリュトス』の舞台でもある。テセウスの子ヒッポリュトスに、継母パイドラ(en:Phaedra (mythology))が禁断の恋をしてしまうという話である。ヒッポリュトスは町を離れるが、海から出てきた雄牛に馬車を攻撃され、死んでしまう。同じテーマでセネカは『パエドラ』を、ジャン・ラシーヌは『フェードル』を書いているが、どちらも舞台はトロイゼーンである。
トロイゼーンには泉があって、おそらく天馬ペガソスがこの地に来た時に作られたのだろう。
[編集] 歴史の中のトロイゼーン
ヒッポリュトス伝説にまつわる信仰がこの古代都市に生まれた。トロイゼーンの娘たちは伝統的に、結婚する前に一房の神をヒッポリュトスに捧げていた。
サラミスの海戦の前、アテナイの女性・子供たちは、アテナイの政治家テミストクレスの指示でトロイゼーンに疎開した。1959年、この町の喫茶店で見つかった石碑には、アテナイ疎開を命じた「テミクレトスの布告」(en:Decree of Themistocles)が刻まれていた。石碑にはサラミスの戦いの200数年後の日付が記されていて、おそらく記念の複製だと思われる。
トロイゼーンには、小アジアのハリカルナッソス人(en:Halicarnassus)が建てたイシスの神殿がある。おそらくこの地が彼らの母都市だったのだろうが、イシスの像はトロイゼーンの人々が捧げたものだった。