トニー・フェルナンデス
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トニー・フェルナンデス(Octavio Antonio (Castro) "Tony" Fernández、 1962年6月30日 - )は、ドミニカ共和国出身の元プロ野球選手である。ポジションは内野手(メジャーリーグでは遊撃手・二塁手、日本球界では三塁手)である。日本では2000年に西武ライオンズに所属した。
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[編集] 来歴・人物
ドミンゴ・マルティネスを解雇し迎えた西武の1999年シーズンは、代わりの外国人助っ人が機能しなかったため打線が弱体化し、リーグ3連覇を逃したことで、球団側はメジャーリーグで実績を残した選手をリストアップした。
その結果、メジャー通算2240安打のキャリアを持ち、メジャーの安打製造機として知られたフェルナンデスと、メジャーで3年連続打率3割の結果を残していたレジー・ジェファーソンの二人を共に高額年俸で獲得した。
フェルナンデスの推定年俸は3億5000万円で、メジャー16年で2240安打のキャリアを有し、4年連続のゴールドグラブ賞受賞の経験もあるなどメジャー屈指のショートストップとして一世を風靡した選手であった。
高齢のため往年のショートの守備には付かなかったものの、打撃の方は開幕当初は3番として、ジェファーソンが不振に陥ってからは4番として活躍し、メジャー2000本安打の実力をいかんなく発揮した。開幕戦で何でもないサードゴロを落球し、ファンを心配させたが、その後は無難に三塁の守備をこなした。またメジャーでも定評があった走塁面でも力を発揮、若い頃の走力はなかったが、相手の隙を逃さない好走塁をしばしば見せた。
怪我が多いことや、38歳という年齢の問題もあって、1年で自由契約となったが、当時のオーナー・堤義明は「ライオンズに無いものをアメリカから持ってきてくれた。ありがとうと言いにいかせる」と、編成担当者をドミニカのフェルナンデスの元に向かわせた。その存在感、野球に対する態度はチームを変えたとも言われる。松井稼頭央には特に目を掛け、アドバイスを送っており、その後のメジャー移籍に大きな意味を持たせた。翌2001年はメジャーに復帰し、長く活躍したブルージェイズにも在籍したが、この年限りで現役を引退した。
2008年にブルージェイズでの功績が認められカナダ野球殿堂入り。背番号『1』はブルージェイズのエクセレント・ナンバー(準永久欠番)として顕彰されている。現在はTony Fernandez Foundationという、アメリカ合衆国とドミニカ共和国の子供を助ける財団を経営。
敬虔なクリスチャンであり、本塁打を放った後などに神に感謝する仕草も見られた。また禁酒禁煙で、西武ドームのベンチ裏から灰皿が撤去されたのは、このフェルナンデスに配慮したものだった。
夏場には、母国で兄が急死したという訃報に接し、一時チームを離れ帰国した。アメリカ・メジャーリーグでは、家族の不幸や妻の出産などの際は、落ち着くまで休暇を取ることが許され、またそうするのが当たり前であるが、西武が優勝争いをしていることもあり、フェルナンデスはすぐに来日し、復帰。復帰初戦でサヨナラヒットを打ち、ヒーローインタビューでは兄への想いを静かに語り、ファンに感動を呼んだ。
[編集] エピソード
フェルナンデスには来日直後から、様々な奇行が目立った。
入団時の記者会見で日本球界入りを決めた理由を聞かれると「神のお告げです」と発言。敬虔なクリスチャン故の言葉だが、その4年前にマイク・グリーンウェルが阪神を退団する際に同じ発言をして話題を呼んでおり、ファンからは不安の声も聞かれたが、結局杞憂に終わった。
練習では、更に奇人ぶりを発揮。巨大なボールを両手に抱えて横に放り投げたり、ノックでわざとトンネルを繰り広げるなど、その独特の練習は周囲を唖然とさせた。また不振に悩んでいたある時には、遠征中の地方球場で工事現場に置かれていた杭打ち用ハンマーを発見。それを使って素振りを行ったところその日の試合で猛打賞と復活し、関係者に頼んでそのハンマーを譲ってもらったこともある。
試合中は何故か大きな帽子、ヘルメットを浅めにかぶる癖があり、プレーの最中にしょっちゅう帽子を飛ばしていた。ある時は走塁中にヘルメットが脱げ、その後三塁に滑り込んだとき剥き出しの後頭部に送球が直撃し悶絶したことがあるなど、あまり良い結果は生んでいない。なお、このシーンはこの年のプロ野球珍プレー・好プレー大賞にもよく用いられた。福岡ドームでは、トレーニング室備え付けのマウンテンバイクを勝手に持ち出して通路で乗り回すなど、その伝説には枚挙に暇がない。
これらの行動は、ともすれば自分勝手ともとられそうだが、信心深いフェルナンデスは常にチームのことを考える選手であり、独善的な我が侭などは一切言わなかった。メジャーで大きな実績を残した選手にありがちな、高いプライドで日本野球を見下したような姿勢、あるいはプレーに手を抜くなどといった問題とは完全に無縁であり、チーム内からの人望も厚かった。
[編集] 略歴
- 身長・体重:185cm、91kg
- 投打:右投両打
- 出身地:ドミニカ共和国
- 球歴・入団経緯:ガスト・フェルナンド・デ・リグネ高 - ブルージェイズ - パドレス - メッツ - ブルージェイズ - レッズ - ヤンキース - インディアンス - ブルージェイズ - 西武 - ブルワーズ - ブルージェイズ
[編集] 通算成績
[編集] アメリカ・メジャーリーグでの通算成績
- 2158試合 打率.288(7911打数2276安打)92本塁打 844打点246盗塁
[編集] 日本プロ野球での通算成績
- 103試合 打率.327(370打数121安打)11本塁打 74打点 2盗塁
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1 トニー・フェルナンデス / 2 ロブ・バトラー / 4 アルフレッド・ グリフィン / 9 ジョン・オルルド / 10 パット・ボーダーズ / 12 ロベルト・アロマー / 19 ポール・モリター / 21 ウィリー・カニャーテ / 24 リッキー・ヘンダーソン / 25 デボン・ホワイト / 27 ランディ・ノー / 28 アル・ライター / 29 ジョー・カーター / 30 トッド・ストットルマイヤー / 31 デュウェイン・ウォード / 33 エド・スプレイグ / 34 デイブ・スチュワート / 40 マイク・ティムリン / 41 パット・ヘントゲン / 48 マーク・アイクホーン / 49 トニー・カスティーヨ / 50 ダニー・コックス / 66 ホワン・グズマン 監督 シト・ガストン |