ジャガー・Eタイプ
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ジャガー・Eタイプ(以下E-Type)はイギリスの高級車メーカージャガー社より、1961年から1975年の間販売されたスポーツカー。
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[編集] 概要
E-Typeは、1948年から13年にわたって作られたジャガーXKシリーズに替わり、ジャガーのスポーツ/GTラインナップを担う車として開発され、1961年にジュネーブショーにて発表された。それまでC-TypeやD-Typeのレースでの活躍によりスポーティなイメージが強まっていたジャガー社は、そのイメージを利用するため、XKの後継車にXKの名称を用いずレーシングカーとしてのつながりを示す「E-Type」という名称を用いた。
流麗なデザインと卓越した性能、それでいてライバル車よりも安価な価格でE-Typeは大きな人気を博すこととなった。特にアメリカでは大ヒットとなった。
その空力を意識したデザインはマルコム・セイヤーによるものである。 エンジンは当初3.8リッターの直列6気筒DOHCで、後に4.2リッターへと排気量が引き上げられ、最終的にはV12気筒SOHCが搭載された。トランスミッションは4速MT。途中のモデルからは3速ATを選ぶことも出来た。ボディーは全モデルを通じてモノコックとチューブラーフレームが併用されていた。
後年は、主に最大のマーケットであったアメリカの安全基準を満たすため、Series 2・Series 3へとモデルチェンジを行ったが、当初の美しいデザインは次第にスポイルされていった。
[編集] E-Typeの変遷
E-Typeは、その14年の歴史の中で、大きなモデルチェンジを3回行った。それに応じ、Series 1~3の名称が与えられている。Series 1の時代にはマイナーチェンジを2回行っている。ここでは、その計5回のモデルチェンジごとに、それぞれのモデルの特徴について触れていく。
[編集] Series 1 3.8L(最初期モデル、1961-1964)
1961年、ジュネーブショーにて華々しいデビューを飾ったE-Typeは、美しいボディラインのみならず、当時としては夢のような最高時速240キロを標榜し、人々の憧れの的となった。ボディーはオープン2シーターとフィクスト・ヘッド・クーペの2つから選ぶことが出来た。前者はロードスターの名で呼ばれることが一般的である。
メカニズム的には、まずパワートレーンが3.8リッターのXKエンジン(直列6気筒DOHC、3連SUキャブレター)にモス製の4速MTの組み合わせ。エンジンのスペックは265bhp/5500rpmと発表されたが、これは現在では疑問視されている。同様の3.8リッターエンジンを積むジャガー・Mk-2が220bhp/5500rpmである(ただしこちらはツインキャブ)ところからも、おそらくは210-230bph程度が妥当なところであろう。ブレーキはダンロップ製のディスクブレーキ、サスペンションは4輪独立懸架(フロントがダブルウイッシュボーンにトーションバー、リアは2本ずつのショックアブソーバーとコイルスプリングを備えた変形ダブルウイッシュボーン)を採用していた。なお、この形式はXJシリーズにも踏襲され、少しずつ形を変えながら1990年代まで生き永らえた。ステアリングはラック&ピニオンであった。ホイールはワイヤーホイールが標準で用意されていた。
このモデルにおいては、容量の不足したブレーキと、古い設計で1速がノンシンクロであったモス製ミッションが不評を買った。また、内装においては、グランドツアラーとしては不充分なバケットシート、またセンターコンソールボックスの欠如が顧客の不満を招いたようである。ジャガーとしては新たな試みであった内装のアルミパネルも、美しくスポーティではあったものの高級感という点においては今ひとつであった。
最初期のモデルには、通称「フラットフロア」と呼ばれるモデルが存在する。これは、運転席床パネルが文字通りフラットなモデルで、発売開始から1年も作られていないため、マニアの間ではかなりの希少価値となっている。しかし実際は運転の際にペダル操作がしにくいため、敬遠する向きもあるようだ。これ以降のモデルはフットウェル(かかとを置くスペース)が設けられ、フロアは若干下に飛び出ることとなった。これは外観からも見分けることが可能である。
[編集] Series 1 4.2L(1964-1967)
1964年に、Series 1はマイナーチェンジを受けた。主な変更点はエンジン、ミッション、内装、そしてブレーキである。しかし見た目にはほぼ何も変わっておらず、相変わらずその美しいスタイルは人々を魅了した。
エンジンは4.2リッターへと排気量を引き上げられ、トルクが著しく向上した。キャブレターにも若干の変更があり、排気マニフォールドも若干の変更を受けた。最高出力は3.8リッターと同じであったが、発生回転数は5500rpmから5000rpmへと引き下げられた。そのため、パフォーマンスは向上したものの、エンジンがスポーティーさを失ったと嘆いた愛好家も一部あった(ある)ようだ。
悪評高きモス製ミッションは自社製のフルシンクロ4速ミッションへと換装され、すばやいシフト操作が可能となった。ブレーキはダンロップ製からロッキード製へと変わり、パフォーマンスは若干向上した。
見た目に最も変わったのは内装である。シート形状は見直され、薄いバケットシートからたっぷりとしたクッションの容量を持ったシートへと変更された。また、内装に使われていたアルミパネルは姿を消し、センターパネルは黒のビニールで覆われた。コンソールボックス兼肘掛も設置された。いずれもグランドツアラーにふさわしい変更であり、快適性は飛躍的に向上した。
元来、ロードスターではトランクリッドに、フィクスト・ヘッド・クーペではテールゲートに設置されていた「Jaguar」のエンブレムに加え、4.2リッターモデルではそのエンブレムの上に「E Type」、下には「4.2」のエンブレムが追加された。
なお、1966年にはロードスターとフィクスト・ヘッド・クーペに加え、2+2がラインナップに加わった。これはクーペ(2人乗り)のホイールベースを伸ばし、さらにルーフラインを高くすることによって+2の後席を稼ぎ出したモデルである。このモデルはホイールベースの延長により、ドライブトレーンを搭載するスペースにゆとりが出来たため、ボルグ・ワーナー製3速ATを搭載できるようになった(もちろん4速MTも選べた)。このモデルは後席とATにより更に実用性が高まり、更なる顧客を増やすことに貢献した。
[編集] Series 1 1/2 4.2L(1967-1968)
1967年から1968年にかけて、1年弱の間にSeries 1はアメリカ連邦安全基準に適合させるための変更を徐々に行った。このモデルは、正式にはSeries 1なのであるが、Series 2との共通点が数多くあるため、後年マニアより中間のモデルとして、Series 1 1/2と呼ばれるようになったのである。
このモデルは、国外向けと国内向けで変更点が異なったり、変更点を1年弱かけて少しずつ導入していったりしたため、様々な仕様があり、一概にいつどのような変更が行われたのかを説明することは専門家にも難しいことである。外観において最も大きく変更を受けたのはヘッドライトであり、ボディラインに溶け込むようなデザインを生んでいたガラスカバーが取り除かれた。ホイールのスピンナーは「耳」がなくなったため、ホイールの取り外しのためにはアダプターが必要になった。また、アルミのポリッシュ仕上げの美しいエンジンのヘッドカバーは、黒とシルバーに塗装されたものへと切り替えられた。内装・電装品に関しては、ハザードスイッチが新設されたことと、スイッチがトグルスイッチからロッカースイッチに切り替えられたことが主な変更点である。
[編集] Series 2 4.2L(1968-1970)
1968年に、E-TypeはSeries 2へと進化した。外観の変更は主にアメリカ連邦安全基準に合わせたためだったが、機能上の問題から変更された部分もあった。現在、デザイン面においてあまり人気がないことは否めないが、しかし最も実用に耐えるE-Typeである。変更点は多岐にわたり、Series 1において抱えていた様々なネガが払拭されている。
このモデルチェンジで最も目立つ変更点は灯火類である。ヘッドライトのカバーはSeries 1 1/2と同様取り去られ、明度を確保するためにヘッドライトユニット自体が前進した。ヘッドライトユニットの上からボンネットに沿ってクロームメッキのラインが追加されている。フロントのウインカーおよびリアのブレーキランプとウインカーはそれぞれバンパーの下へと場所を移し、それぞれ大型化された。
ボディ関係では、バンパーの形状および位置が見直された。リア、フロント共に大型化され、リアバンパーは位置が上に上げられた。フロントバンパーの中央部、ラジエターグリルの前には1本太いバーが通され、ジャガーのマークはその上に移動された。ラジエーターグリル自体も大型化され、冷却効率が上がった。特徴的であった3本のワイパーは、技術が進んだおかげで一般的な2本に改められた。
ブレーキはロッキード製からガーリング製に変えられ、制動力が飛躍的に上がった。ホイールのスピンナーの耳は、Series 1 1/2と同様、歩行者を引っ掛けないようにという目的からなくなり、ホイールを外すときにはアダプターが必要になった。
内装においては、シートがリクライニングになり、ヘッドレストがオプションで選べるようになった。スイッチ類はSeries 1 1/2で採用となったロッカースイッチが引き続き採用された。
エンジンはSeries 1からのキャリーオーバー(直6の4.2リッター)であるが、Series 1 1/2で触れたように、エンジンのカムカバーが美しいポリッシュ仕上げではなくなり、黒とシルバーに塗装されたものへと換えられた。ヨーロッパ仕様はSUの3連キャブレターを採用していたが、アメリカ仕様では排気ガス規制への対策から、ゼニス・ストロンバーグ製キャブレター2基を搭載することを余儀なくされ、パフォーマンスはかなり低下した。一方、ラジエーターは容量がアップし、オーバーヒートの心配がなくなった。特に暑い国ではラジエーターグリルの大型化とあいまってかなり信頼性が向上した。ミッションもSeries 1の4.2リッターと同様である。
ボディータイプは引き続きロードスター、フィクスト・ヘッド・クーペ、2+2の3種から選べた。2+2はフロントガラスの形状が見直され、傾斜がかなり強まった。
[編集] Series 3 5.3L(1971-1975)
1971年、Series 2の生産が終わってしばらく間を空けてから、Series 3は発売を開始した。アメリカの安全基準に適合させるために骨抜きになったE-Typeは、XK6気筒エンジンを5.3リッターの新開発V12気筒エンジンに置き換えることでそのパフォーマンスを回復した。キャブレターはゼニス・ストロンバーグを片バンク2機ずつ備え、最高出力は272bhp/5850rpmを誇った。アルミブロックを採用したため、6気筒と比べても重量増はわずかに留まった。このエンジンはまさにシルキー・スムーズなすばらしいエンジンであり、その後XJサルーンや後継モデルであるXJ-Sにも搭載されて、改良を受けながら20年以上も生産された。もちろん、ジャガーの伝統どおり、新型エンジンは最初に生産規模の少ないスポーツモデルに搭載し、市場へのテストベンチとする、という役割もSeires 3は担っていた。当初、ジャガー社はレーシング・プロトタイプであるXJ13に搭載したツインカムの5.0リッターV12をデチューンして、新たなE-Typeに搭載しようと考えていたようだ。しかし、量産するには機構が複雑すぎることもさることながら、何よりツインカムのヘッドがE-Typeの狭いエンジンベイに納まらないことから、採用は見送られ、代わりにシングルカムのV12を搭載することとなった。
ボディタイプは、Series 3よりロードスターと2+2の2タイプのみとなり、フィクスト・ヘッド・クーペはカタログから落とされた。ロードスターも2+2のシャシーを使っていたため、ホイールベースはかなり延長された。その結果、ロードスターのラゲッジスペースは拡大され、また、従来は2+2でしか選べなかったボルグ・ワーナー製の3速ATが、Series 3からはロードスターでも選べるようになった。MTは、従来どおりいずれのモデルにも自社製4速ミッションが用意されていた。
外装は大きく手直しを受けた。もはやSeries 1で見ることのできたシンプルな美しさはどこにもなかったが、替わりに迫力と豪華さを備えていた。フロントにはついにメッキの格子状グリルが付いた。その横のバンパーには、アメリカの基準に合わせるべくつけられた不恰好なオーバーライダーがつけられていた。重量増に対応するため、タイヤは太くなったが、それを飲み込むためにホイールアーチには前後ともフレアがつけられた。
灯火類は大きな変更を受けてはいない。ヘッドライトには車幅灯が組み込まれたが、それ以外はウインカーもリアの灯火類もそのままSeries 2のものが用いられた。
室内では、シートが新設計のものとなった。ヘッドレストは国によって義務付けられたり、オプション扱いになったりした。ステアリングはウッドステアリングが廃止になり、代わりに皮巻きのものが取り付けられた。
その他の変更点としては、パワーステアリングが付いたこと、ブレーキのディスクがベンチレーテッド式になったこと、ノーマルのホイールがワイヤーからメッキカバーの付いたスチールホイールへと変更されたこと、などが挙げられる。サスペンションも若干の変更を受けた。
これらの変更を受け、大きく姿を変えたE-Typeも、しかしこの時点ですでにかなり旧態化していた。すばらしい新型エンジンはむしろその旧態化したシャシーを目立たせてしまう結果となった。折りしも時はオイルショックのときであり、時代がスポーツカーには全くの逆風だった。さらに悪いことには、このときすでにブリティッシュ・レイランド傘下に入っていたジャガー社の自動車の品質はかなり落ちており、最大のマーケットであるアメリカにおいて「よく壊れる車」とのレッテルを貼られる羽目に陥ってしまった。これらのことから、Series 3は失敗作だとするマニアの声は多いようである。しかし、何物とも比較せず、Series 3だけを見れば、これは未だにすばらしいパフォーマンスを誇る美しい車であると言えよう。
なお、最後の50台には、ライオンズのサインが入った、ゴールドのプレートが助手席のパネルに張られている。50台のうち49台は、特別色のブラックで塗られてラインオフした。最後の一台はジャガー・ヘリテッジ・トラストに展示されている。
[編集] E-Type Lightweight(Eタイプ・ライトウェイト)(1962-1964)
[編集] E-Typeレース参戦までの流れ
ジャガー社はDタイプでル・マンを制し、スポーティなイメージを高める事に成功したが、Dタイプがあまりにル・マンにのみ的を絞ったチューニングだった為、他のコースでは思ったほどの成績が上げられず、プライベーターへの売り上げ(Dタイプは一般顧客にも販売された)は伸び悩んでいた。さらには、レギュレーションの変更などで出場できる機会の減ったDタイプは過剰在庫となってしまった。結局、それの打開策として発表された、DタイプのロードゴーイングバージョンたるべきXKSSは、ジャガー社のコベントリー工場が1957年大火事に見舞われた事でごく小数が作られたのみにとどまり、治具が失われた事で再生産も不可能となってしまった。この時点でライオンズ会長はレースへの情熱をすっかり失ってしまっており、ジャガー社がワークスとしてレースに参戦することに関してかなり消極的であった。一方、ジャガー社内でレース活動を支えてきたロフティ・イングランドやウィリアムズ・ヘインズらは、プライベーターへの後押しという形でレースに参戦する事を考えていた。そこで、E-Typeの生産が始まると、市販車はまず上顧客とレーシングドライバーに割り当てられた。結果、E-Typeはプライベーターのレース車輌としてレースに数多く出場し始めた。
[編集] Low Drag Coupe (ロー・ドラッグ・クーペ)
プライベーターがレースに参加して得られた情報をもとに、ジャガー社はプライベーターに向けた「特別なE-Type」を開発し始める。これがまず最初に登場したLow Drag Coupe(ロー・ドラッグ・クーペ)であった。
このモデルは、戦闘力を高めるために、マルコム・セイヤーがE-Type開発の途中で考えていた別のデザイン案を用い、更に空力を追究していた。当初に作られた1台は、軽量化のためノーマルに比べて薄い鋼板を使ってパネルを作られた。しかし、このモデルが完成した後、アルミボディでもホモロゲーションを得られることがわかると、このスティール・ボディの1台はしばらくの間ファクトリーで眠る事となった(後に売却された)。Low Drag Coupeは3台が作られたが、残りの2台は上記の理由によりアルミボディである。
エンジンは圧縮比を高めたXK 3.8リッターエンジンにルーカス製インジェクションを用い、300bhp以上を発生していた。
[編集] E-Type Lightweight(Eタイプ・ライトウェイト)
1962年に入り、フェラーリ・250GTOがホモロゲーションを取得し、レースに参戦し始めると、その高い戦闘力の前にプライベーターのE-Typeは優位性を失った。そこで、ジャガー社としては性急にフェラーリに勝てる車を開発する必要があった。アルミボディでホモロゲーションが得られることがわかると、ジャガー社はボディパネルをアルミで作成し、エンジンや足周りをチューニングしたE-Type Lightweightを発売する事にした。ボディパネルはアビィ・パネルズ社に注文し、それを組み立てた。エンジンはLow Drag Coupeと同様、ルーカスのインジェクションを備えたXK 3.8リッターエンジンで、300bhp以上を発揮した。計12台のLightweightが作られ、レースに出場した。また、同様のスペックでスティールボディのモデルも別に2台作られた。
しかし、これらのモデルは、残念ながらC-TypeやD-Type程の目覚ましい活躍をする事は出来なかった。