ジム・クラーク (レーサー)
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F1での経歴 | |
国籍 | イギリス スコットランド |
生年月日 | {{{生年月日}}} |
没年月日 | {{{没年月日}}} |
車番 | {{{車番}}} |
所属チーム | ロータス |
活動時期 | 1960 - 1968 |
過去の所属チーム | {{{過去の所属チーム}}} |
出走回数 | 72 |
優勝回数 | 25 |
通算獲得ポイント | 274 |
表彰台(3位以内)回数 | 32 |
ポールポジション | 33 |
ファステストラップ | 28 |
F1デビュー戦 | 1960年オランダGP |
初勝利 | 1962年ベルギーGP |
{{{今年度}}}年順位 | {{{今年度順位}}} |
(記録は{{{最新レース}}}終了時) | |
最終勝利 | 1968年南アフリカGP |
最終戦 | 1968年南アフリカGP |
ジム・クラーク(James "Jim (or Jimmy)" Clark Jr. OBE, 1936年3月4日 - 1968年4月7日)はスコットランド出身のレーサー。フライング・スコット(天駆けるスコットランド人)の異名を持つ。F1の歴史において最も優れたドライバーのひとりに数えられ、天性の速さの資質においてアイルトン・セナと並び称されている。
目次 |
[編集] プロフィール
スコットランド、ファイフ半島キルメニーの農家に4人の姉を持つ末っ子として生まれ、6歳の時、イングランドに近いボーダー地方のチャーンサイドへ引っ越す。牧童として働きながら草レース・チーム「ボーダー・リーヴァーズ」で活動しているうちに、ロータスの創始者コーリン・チャップマンに見出され、1960年に同チームからF1にデビューした。
1962年には、バスタブ型のモノコック構造を初めて取り入れたロータス25で、9戦中6回のポールポジション、3度の優勝という活躍を見せてBRMのグラハム・ヒルとチャンピオンを争い、翌1963年には10戦中7回のポールポジション、7勝で開幕戦モナコGP以外は全て表彰台という圧倒的な強さで初のチャンピオンに輝いた。同時にロータスも初のコンストラクターズチャンピオンを獲得した。
1964年はシーズン中盤のドイツGPから投入したロータス33の信頼性が低かったことでリタイアを繰り返した。それでもクラークはフェラーリのジョン・サーティース、BRMのヒルとチャンピオンを争い、最終戦メキシコGPでも残り2周までトップを走り、2年連続チャンピオンはほぼ決定と思われたが、オイルパイプのトラブルでストップしてしまい、チャンピオンを逃した。
1965年はクラークとロータスがレース界を席巻した年となった。F1では開幕戦南アフリカGPから第7戦ドイツGPまで、インディ500に出場する為に欠場した第2戦モナコGPを除く全てのレースで優勝し、3戦を残してチャンピオンが決定した。さらにクラークはロータス38で出場したインディ500でも優勝を果たした(インディ500には1963年から参戦)。
レギュレーション改定でエンジン排気量が1.5リットルから3リットルに変更された1966年のロータスは、BRMのH型16気筒エンジンという「珍品」を持ち出すなどしたため、クラークは1勝に止まった。
しかしロータスを率いるチャップマンはフォードの支援の下、翌1967年に向けてひそかにフォード・コスワース・DFVエンジンを開発。このエンジンを搭載したロータス49のデビュー戦1967年オランダGPで優勝するなど、この年クラークは4勝をあげ、チャンピオンの座はブラバムのデニス・ハルム(2勝)に譲ったが、通算勝利を24に伸ばして、歴代1位のファン・マヌエル・ファンジオと並ぶタイ記録となった。
翌1968年シーズンまでにはロータス49とDFVエンジンの信頼性も向上し、開幕戦南アフリカGPに勝利して通算25勝と歴代単独1位になって、この年のチャンピオン最有力候補と見られていた。しかし第2戦スペインGPまでのインターバルの間の4月7日にドイツのホッケンハイムで開催されたF2レースにロータス48で出場したクラークは、突然コースアウトして木に激突し、事故死した。享年33(32歳)。原因は完全には特定されなかったが、左後輪タイヤのスローパンクチャーであったとみられている。1968年のドライバーズ・チャンピオンはチームメイトのヒルが獲得した。
[編集] 伝説
クラークは72回のグランプリに出場して25勝したにもかかわらず、2位は1度しかない。このことは、マシンの軽量化をギリギリまで追求したチャップマンのロータスに乗ったクラークには、マシントラブルでも起こさなければ競り勝つことが難しかったことを物語るデータとして、しばしば取り上げられる。しかもクラークのドライビングは、いわゆる「タイヤに優しい走り方」で、同時代の有力ドライバーの誰よりもタイヤを摩耗させなかったという[1]。
ポールポジション通算33回は、アイルトン・セナ(65回)に破られるまでは歴代1位の記録で、現在でもアラン・プロストと並んで歴代3位であり、ポールポジション獲得率45.8%はセナの40.4%を上回る。
レーススタイルは予選で断トツのポールポジションを獲得し、決勝レースも1周目から後続を引き離して独走優勝というものであった。
ロータスは1968年南アフリカGPの後、ナショナルカラーの緑色に替わってスポンサーカラー(ゴールドリーフ・タバコ)に塗られるようになり、クラークも同年のタスマンシリーズにはゴールドリーフカラーの「ロータス49T」で出場し、事故死したF2レースでのマシンも同様だった。しかしF1グランプリでロータスがスポンサーカラーに塗られたのはクラーク死後の第2戦スペインGPからで、そのためにナショナルカラー時代を象徴する最後のF1ドライバーともなった。
農家の生まれであるクラークの木訥な性格は、華やかなF1の世界にあっても揺らぐ事はなかった。ある年のモナコで、チャップマンがクラークとヒルの二人に小遣いを渡し、カジノで存分に遊んでくるよう促した事があった。しばらくしてチャップマンはまずヒルに会ったが、その時ヒルはとっくにチャップマンから貰った金を使い果たしていた。次いでクラークに会ったチャップマンが調子を聞くと、クラークはまだ金に全く手をつけていなかったという。クラークとヒルという二人のチャンピオンの性格の好対照を物語るエピソードとして語り継がれている。
典型的なナチュラル・ドライバーとして知られ、不調のマシンでも難なく乗りこなしてしまうため、メカニックに「彼がマシンに乗ると、セッティングが進まない」と言わしめるほど、その才能は高かった。
あまり酒を飲まず、バーでもジュースで済ませる事が多かった。そんな木訥な彼の性格は、チャップマンに「いつまでも田舎の兄ちゃん」と言わしめ、彼を大事に扱い、公私に渡って面倒をみたという。そして、「彼は、ナンバーワンであり、しかもパーフェクトだった」と最高の賛辞を送り、彼の死においてはチャップマンは深く悲しみ、慟哭したほどである。
[編集] ジム・クラークカップ
ターボエンジンの禁止に先駆けて、1987年より3.5L NAエンジンの使用が認められた際、全面移行となる前の1988年までの間、NAエンジンユーザのためのタイトルが設けられた。ドライバーズタイトルとして、すでに伝説のドライバーとなっていたジム・クラークの名前を冠した。一方コンストラクターズタイトルは、ジムが長年所属していたロータスの創始者である、チャップマンの名前が冠された。
[編集] F1での年度別成績
年 | 所属チーム | 獲得ポイント | ランキング | 決勝最高位・回数 | 表彰台回数 | *予選最高位・回数 |
---|---|---|---|---|---|---|
1960年 | ロータス | 8 | 10位 | 3位・1回 | 1回 | 5位・1回 |
1961年 | 11 | 7位 | 3位・2回 | 2回 | 3位・1回 | |
1962年 | 30 | 2位 | 1位・3回 | 3回 | 1位・6回 | |
1963年 | 54 | 1位 | 1位・7回 | 9回 | 1位・7回 | |
1964年 | 32 | 3位 | 1位・3回 | 3回 | 1位・5回 | |
1965年 | 54 | 1位 | 1位・6回 | 6回 | 1位・6回 | |
1966年 | 16 | 6位 | 1位・1回 | 2回 | 1位・2回 | |
1967年 | 41 | 3位 | 1位・4回 | 5回 | 1位・6回 | |
1968年 | 9 | 11位 | 1位・1回 | 1回 | 1位・1回 |
*予選順位はペナルティなどを反映した決勝グリッド
[編集] 脚注
- ^ ダグ・ナイ(森岡しげのり訳)『ジム・クラーク/偉大なるヒーロー像』(ソニー・マガジンズ、1991年)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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