シャイレーンドラ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シャイレーンドラ朝(しゃいれーんどらちょう、英語;Sailendra,インドネシア語;Wangsa Syailendra、752年?-832年?)は、8世紀半ばから9世紀前半にかけてジャワ島中部に建てられた王朝。シャイレーンドラはサンスクリット語で「山からの王」「山の王家」[1]という意味。
目次 |
[編集] 王朝の起源
中部ジャワに栄え、ボロブドゥール寺院を造営したことで知られるシャイレーンドラ朝は、はじめはジャワに、のちにはスマトラ島のシュリーヴィジャヤに君臨し、やがてそれと合邦してシュリーヴィジャヤの名で繁栄をつづけた。
シャイレーンドラは、その意味(「山の王家」)から、インドシナ半島の古代王国扶南のプノン(山)と関係があるのではないかという意見があり、シャイレーンドラ・シュリーヴィジャヤ王国は何らかの意味で、扶南の後継者にあたるのではないかとする見方がある。
また、この王朝の成立経緯については、シュリーヴィジャヤ王国が8世紀半ば以降にジャワ島中部に進出したという説と、ジャワ王家でシュリーヴィジャヤに君臨した王朝であるという説がある。いずれにしても、この王朝の起源については不明である。人種的にも、モンゴロイドではないかという説もあれば、オーストラロイド系のマレー人とする見方もあり、近年では後者の見解が有力である。
中部ジャワ北岸のブカロナン周辺で見つかった古マレー語の碑文は7世紀初めと推定され、そこに「セレーンドラ」とその両親、妻の名前が列挙されており、彼を王朝と創始者とする説もあるが、定説にはいたっていない。
[編集] 中部ジャワの支配とボロブドゥールの造営
シャイレーンドラ王家の碑としてはカラサン碑文(778年)、クルクタ碑文(782年)があり、シャイレーンドラの中部ジャワでの支配が確立したのは、大王パナンカランが「山からの王(シャイレーンドラ)」という称号が与えられて以来とされている。その後、一時はヒンドゥー教を奉ずる古マタラム王国を圧倒した。
ボロブドゥール寺院は底部の一辺が120m、高さ約42mという巨大な石造ストゥーバである。ボロブドゥールは、ダルマトゥンガ王(位775年以前-782年)治下の780年頃から建造が開始され、サングラーマグナンジャヤ王(位782年-812年)治下の792年頃に一応の完成をみたと考えられるが、サマラトゥンガ王(位812年-832年)のときに増築されたと考えられている。
ダルマトゥンガ王は、サリー寺院(チャンディ・サリー)や、とくにプランバナン渓谷のカラサンに建てたチャンディ・スヴーを中心とする240の付属寺院からなる複合建築(総称してカラサン寺院)[2]を建立しており、このころ、文学では、サンスクリットの辞典『アマラテラ』を古代ジャワ語に翻訳する作業に着手している。
ダルマトゥンガ王の死後、その王子が後を継いだ。これがサングラーマグナンジャヤ王(サングラーマ王)である。王は、800年ごろにチャンディ・セウを建立している。プランバナン村の北に位置し、1つの大きなチャンディを中心に340もの小さなチャンディをめぐらせたものであるが、大部分が崩れ、現在に至っても修復されていない。
ボロブドゥールの東約3kmには、ムンドゥッ寺院(チャンディ・メンドゥート)があり、堂内に安置された3体の石造仏で知られる。ことに中央の如来倚座像は、その美しさで知られる。ボロブドゥールとムンドゥの両寺院の間にはパオン寺院があり、3寺院は一連の構造物であるとの見方もある。これは、825年にサングラーマナンジャヤ王の子、サマラトゥンガ王によって増築ないしは建立されたものである。こんにち、ボロブドゥール寺院とムンドゥ寺院、パオン寺院はボロブドゥール寺院遺跡群として、一括して世界文化遺産に登録されている。
シャイレーンドラ全盛時代にあっては、古マタラム王国のサンジャヤ王の子孫はこれに服属し、シヴァ信仰を保ちながら、仏教建造物への寄進をおこなった。両王国の関係は必ずしも敵対的ではなく、9世紀中ごろにはサマラトゥンガ王の娘と考えられるシャイレーンドラ王女プラモーダワルダニーとサンジャヤ朝の王子ラカイ・ピカタンが結婚し、プランバナン寺院群を完成させた。まもなく、シャイレーンドラ王家出身のサマラーグラビーラは勢力争いに敗れてシュリーヴィジャヤに逃れ、その地の王となったと考えられている。
[編集] 東南アジア世界のなかのシャイレーンドラ朝
シャイレーンドラ朝は、当時カンボジアやベトナム南部のチャンパ王国まで遠征した[3]という説もある。また、カンボジアのクメール人にひろまった大乗仏教は、シャイレーンドラの影響が大きかったのではないかという見解もある。これは、ジャヤーヴァルマン2世が、9世紀のはじめにアンコール朝を起こしたとき、「ジャワの宗主権からの解放者」と称されたことを根拠としている。
シュリーヴィジャヤ王家と姻戚関係をもち強大化をめざしたものの、古マタラム王国などのヒンドゥー勢力によりジャワより後退した。ジャワでは大乗仏教が衰えて、ふたたびシヴァ信仰のヒンドゥー文化がさかんになった。いっぽう、9世紀半ばには、シャイレーンドラはシュリーヴィジャヤと合邦して11世紀の滅亡までスマトラを本拠地として、政治力と商業力で周囲に君臨した。南インドのチョーラ朝の碑文(1006年)にはその子孫がネーガバタムに精舎を建てたとあるが、その後の歴史は不明である。
シュリーヴィジャヤ王国もまた仏教を保護し、インドのナーランダー寺院とも深い関連をもっていたとされる。なお、中国の唐代の歴史書に登場する「訶陵」はシャイレーンドラ朝のことだとする有力な見解がある。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 河部利夫『世界の歴史18 東南アジア』河出書房新社<河出文庫>1990.2、ISBN 4-309-47177-3
- スロト原著、伊東定典訳『全訳 世界の歴史教科書シリーズ32 インドネシア』1983.4