サンソン・フランソワ
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サンソン・フランソワ(Samson François ,1924年5月18日、フランクフルト・アム・マイン - 1970年10月22日、パリ)は、第二次世界大戦後のフランスにおける代表的なピアニストの一人である。主に、ショパンやドビュッシー、ラヴェルの演奏を得意とした。
[編集] 生涯
フランス人の両親の間に生まれる。5歳でピアノを始め、早くから天才といわれた。1934年、一家でニースに戻った時、アルフレッド・コルトーに見出されて1936年にエコールノルマル音楽院に入学、1938年にはパリ音楽院に入学後はマルグリット・ロン、イヴォンヌ・ルフェビュールに師事。その後1940年に音楽院を首席で卒業。
1943年には第1回目のロン=ティボー国際コンクールで優勝。その後1947年にアメリカデビューを飾り、その後も各地で演奏活動を行う。
ドビュッシーのピアノ作品全集を完了する直前、心臓発作のため急逝。46歳の若さだった。亡くなった日(以後)も、レコーディングの予定が組まれていた。
フランソワはロンの最後の生徒の一人であったが、彼の態度は少し他とは一線を画すいたずらっ子のような様相を呈していた(従順ではなかった)ため、ロンも手を焼いたという。
[編集] エピソード
- フランソワの特徴は、ムラ気なことであった。気分が乗らないときの演奏は、呂律が回らないほどであり、気分の良し悪しによる演奏の出来栄えの差が大きかった。
- フランソワは、酒を愛した人でもあった。また、性格的にも非常に古い芸術家タイプの人間であったので、無機質ですべてが決められたとおりに動くような現代社会において異彩を放つ人でもあった(事実、彼を19世紀のピアニストの生き残り、と評する人もいる)。
- 日本には3回来日歴あり。来日するたびに酔漢の風貌へ変わっていったと言われる。
- 本人は作曲家としての才能もあると自認していたのか、ピアノ独奏作品「黒ミサ」やピアノ協奏曲を残しており、ピアノ協奏曲には録音もある。しかしながら、ピアノ協奏曲の録音では、張り切っているのはフランソワただ一人であり、共演のオケと指揮は意味不明な音楽に引きずりまわされるという、なんとも19世紀的な我侭を披露した。
[編集] その他
- フランソワの演奏は独特なもので他の演奏家とは一線を画す場合が多い。また非常に個性的であるため、ピアノを演奏をする人の範とはなり難い。それでも、この独特の演奏は文化的価値の高いものであるため、何度も回を重ねてCDが発売されている。