クーポン選挙
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クーポン選挙とは、イギリスにおける第1次世界大戦後の1918年12月に行われたイギリスにおける総選挙で行われた選挙の総称を指す。[1]
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[編集] 背景
この選挙はイギリス近代選挙の幕開けとされる。それは、成人男子普通選挙が行われることとなり、一部の女子にも選挙権が認められることとなった。そのため、有権者は前回1910年12月の総選挙時のおよそ4倍となった。
戦時中の1918年においては、ロイド・ジョージは自由党アスキス派にたいして宥和的だった。休戦協定直後の議会解散のおりでも、自由党の伝統的政策である「自由貿易」「平和」に忠実であると宣言し、最低賃金法の導入や対ドイツ政策も復讐ではなく、自由主義的公正さで対処すると示唆していた。
しかし、ロイド・ジョージは有権者が対独強硬路線にあると判断すると、「ドイツにトコトン払わせる」と呼びかけ、自由党アスキス派の議員に連立派を支持するか否かによって、候補者に公認証書を与えるとし、[2]自分に賛成する159人の自由党員に公認証書を与えた。そして、それには保守党のボナー・ローの署名も副えられていたほか、保守党はこの選挙区に公認候補を立てなかったために選挙に有利に働くこととなった。
敗戦処理の講和を巡り、自由党はアスキス派とロイド・ジョージ派に分裂したが、有権者は「戦争を勝利に導いた男」としてロイド・ジョージに率いられた連立派(保守党ボナー・ロー派+自由党ロイド・ジョージ派)を圧倒的に支持した。一方、自由党アスキス派はハーバート・ヘンリー・アスキスの落選を含め28人と完敗した。自由党の主張である不介入主義は、戦争の長期化による徴兵制の導入、新聞の検閲により、すっかり色あせていた。この選挙によって自由党が衰退していったとする見方もある
[編集] クーポン選挙の結末
選挙の結果は「祖国の栄光」を掲げる連立派が圧勝した。だが、圧勝したロイド・ジョージを取り巻く環境はよくなかった。有力な自由党議員は選挙で落選し、閣内は保守党員ばかりで占められた。また、連立相手の保守党はアイルランド自治に反対し、国内の構造改革にも反対し、自由党の掲げる政策を遂行できず、ロイド・ジョージはリベラルをやめたのではないかと評され、自由党の再興を断念したとみなされた。
自由党の主要な議員の落選は、「イデオロギー基盤」を失ったため求心力がなくなることを意味し、ロイド・ジョージは社会政策を1914年以前ほどもできないと酷評されるに至った。外交でもロイド・ジョージはパリ講和会議で、フランスのドイツへの報復主義的な政策へ追随することとなり、ヴェルサイユ条約での過酷な賠償政策をドイツは余儀なくされた。そのため、クーポン選挙における連立派の勝利は、ドイツにおけるファシズムの土壌への手助けとなったと指摘する向きもある。
[編集] 日本におけるクーポン選挙
2005年9月11日に行われた郵政民営化の是非が争点とされた第44回衆議院議員総選挙において、郵政民営化法案に賛成する議員を公認候補とし、反対した議員には公認を与えず対立候補を擁立するやり方をクーポン選挙ではないかと指摘する声もある[3]。
[編集] 脚注
- ^ United Kingdom general election, 1918
- ^ 保守党の側も「レモンの種が泣くまでドイツから搾り取れ」というスローガンを立て対独強硬路線を強調した。
- ^ 中西輝政「宰相小泉が国民に与えた生贄」(文芸春秋2005年10月号)